ANA国内線【PR】
 今日久しぶりに京都に行ってきました。沢山写真を撮ったので、このあいだrfuruya さんにFACE BOOKのアルバム制作を教えて貰ったのですが、カメラのデーターを消してしまったのでできません、仕方なくブログでご覧ください。
 何か写真は懇親会+道中になって居りますが?(総会の写真は支部長が?)

 それではまずは車窓から

高速を降りたら東寺&五重塔↓


一日お付き合いの柳川ちゃん

オイオイもう紅葉かな少々早い

宴会の始まり始まり 行ったところは京都北寄りの貴船の割烹料亭「右源太」

われわれの給仕役(京都の大学生超可愛い!)

席のそばでは滝が音を立てて(オー寒い)

これから支部を背負って立つ青年部会のご両名支部長を囲んで

金閣寺これはすごい(観光の外人さんUS・中国等々)大喜び・・・

優雅な庭園

 まだまだ沢山あるのですが、FACE BOOKでアルバム造りを再挑戦してみます、師匠に怒られる?

 イヤー楽しい一日でした、再度、総会もバッチリ今期の計画まで無事終了おめでとうございました。
  (それにしても写真が無いアホか、遊びにいったんと違うやろ)
 
                          チャンチャン  t-hirai
# by toshi-hirai | 2012-05-13 20:44 | Trackback | Comments(0)
 今日は兵庫県自動車整備振興会神戸中央支部の総会で京都まで、久しぶりの京都懐かしいな~

 忘れてはならない、水谷 勝・宮城 光・千石清一をご紹介しよう・・・

 水谷 勝なんと懐かしい名前か(怒られる)1976年ジュニア250のチャンピョン・1982年国際A級500クラスのチャンピョン非常に苦労人である

 ’70年代中盤から既にカラーのツナギが走っていたが、’60年代にはマダマダ ライダーはクロ一色のツナギで走っていたもんだ(キヨさんの縞々Tシャツは有名だった)

 この時水谷は既に海外に日本ではお馴染みウオ-ターウルフカラーでGPに初登場ヨーロッパのスズキ・フアンの熱い思いを背に水谷(ゼッケン4)はアッセンを「力」一ツパイ走った、結果は13位だが一生懸命走る日本人ライダー水谷選手にフアンは絶大なる拍手で迎えたそうな・・・

 「宮城 光」この人も、当時は明るいキャラクターでレース界の話題を独り占め、他メーカーの平井が「オイ ヒカル」と呼び捨て、それでも「ヤー監督調子イイじゃん」てな言葉を返してくれる「ナイスガイ」若いころから、早いライダーの仲間で’83年ノービスクラス、フォミュラー・250クラス、’84年国際B級フォミュラー1・3クラスでチャンピョンに、ところが’85年には 平・辻本・山本・小林・畝本・各名選手にチャンピョンを譲っており、ソレハネ・・・3年間でトントン拍子にノービスから国際A級に「国内のレースには馴れました」と言ったそうな・・・日本のレースの歴史にはなくてはならない人物である(八代俊一とチームメイトとは?知らなんだ)

 入国審査官に「アイアム・レーシングライダー」その係官「そうかスポーツマンなんだな」とフリーパス・・・と意気揚々と話してくれたこともあった。「ナイスガイ」この写真の頭の白いものヤンチャナ「宮城 光」である・・・今も元気に活躍しているらしい・・・今度の同窓会来てほしいナ~

 千石清一 この人もまたレースを語る上では忘れられない人である、今なお去年の8耐で「紳助チーム」で陣頭指揮、彼友達の不慮の事故でレースは8耐のみ55歳までと決めてやり遂げた素晴らしい根性の人では?、いま尚、若手ライダーの育成に努めている。

 これは鈴鹿でライセンスを取得するときの講師を務めている時の写真、彼もまた兵庫メグロの社員に私が推薦してライダー修行を始めさせたのである。エッヘン
 
 イカンもう出発の時間・・・「イッテキマ~ス」・・・
                                      t-hirai
# by toshi-hirai | 2012-05-13 06:31 | Trackback | Comments(0)
 毎回カワサキの話で終始してしまう「カワサキの真打」こと「迷監督平井稔男」しかし、他メーカーと戦うためには、当然他メーカーのエースライダー&マシンの事は充分に知らなければならない。

 ヤマハの「平 忠彦」彼は尊敬出来る素晴らしいライダーであった。


 ソレハネ・・・私が「オートバイを造っているメーカー」はレースは絶対やらな「アカン」と息巻いていた時に彗星のごとく現れたナイスガイ平 忠彦その人であったからである。

 デビューは確か1977年TZ250での参戦、その容姿(映画スターでも通用するヤマハの宣伝にはTVにもでた格好良かった)闘志(1979年YZ350を駆って第1戦から全部一位?一回2位があったかな?)当然走るために出てきた天才ライダーだった。

 そうして日本を後にしてヨ-ロッパへ飛び出して行った、それは全日本を3度にも亘って制覇、世界のコンチネンタルサーカスへの挑戦が始まったのである。

 日本の誇る「平 忠彦」今なおヤマハで二輪の普及に頑張っている「ナイスガイ」である。

 「TEAM GREEN」も1980年代前半からTEAM38と一つになりロードレースに手を伸ばして居たところでなかったかな?1985年RACER PROFILEに紹介している選手諸君、早い速い故新谷永喜の他は今なお逢えば「オイ」である?みんな元気にやっている。

 イカンイカン今日は他メーカーのライダーの紹介だった。

 ヤマハを紹介したら今度はホンダやろ、ここにはこれまた忘れられない「八代俊二」世界へ飛び出して行った日本を代表するライダーである。
 

 彼との出逢いは、鈴鹿での「全国安全運転競技大会」の前夜祭でのこと「鹿児島の代表選手八代です」と挨拶をしてくれた時からである。
 平井さんもレース大好きカワサキの監督と聞いたのでとの事、イヤー照れたな~


 その八代選手もまた世界に飛び出した素晴らしい男である・・・ちなみに安全運転の成績は駄目?ヤッパ八代はロードレーサーや・・・会いたいなー彼もまた頑張っているだろう・・・

 もう一人話題の井形マリ並み居る男の世界に飛び込み「本田の女性ブランドgのキャラクター」だったのでは?

 写真が残念ない・・・ミネコにでも送ってもらおうかな・・・

 今日は洗濯屋さん・散髪・血圧・歯医者さんとお忙しい一日の始まりである之にてゴメン

サー今日の計画はすべて終了、これから少々お勉強かなそうしよう。


                                      t-hirai
# by toshi-hirai | 2012-05-12 07:31 | Trackback | Comments(0)
 首題のイベントの少しでも応援をしたいと始めたのだが、どうも’60年代は自分の廻りしか書けない、ソレジャ-チョット年代を上げて’70年代から’80年代後半まで広げてみよう。
 皆さんも知っておられるライダーが沢山いるのでは?

平 忠彦  TECH21 8耐でリタイヤした時メインスタンド中央でTHE END憎たらしい,スポンサー大喜び



清原明彦 カワサキ一筋世界を駆け巡ったツワモノ、カワサキあるところいつもキヨサン

和田将宏 この人を忘れたら罰が、ヒロもカワサキあるところ常にヒロが居り 

ヒロの若かりし頃、イヤー男前、彼早くからカワサキで海外に

ゼッケン33 デイトナ1961年にホンダが走り翌年から、ヤマハ・スズキ・トーハツの各ファクトリーがアメリカ市場への売り込み計画参戦、この頃,伊藤史郎・北野 元・玉田真市・伊藤光夫日本人ライダーとHアンダーソン・Bシュナイダー・Pリード等世界GPラウダーのファクトリーエントリーであった。
 伝統あるデイトナ200マイルレースはAMA規定で1968年まで排気量制限(エンジンが750ccのマシンはサイドバルブ型式500cc迄OHV型式)ハーレーに対する配慮だっつたか? 1969年よりこの制限も解除、カワサキもボチボチ走ったのでは、しかし、カワサキが本腰を入れて走り出したのは’72年~’73250ccA-1R、ここで気ちがいマシンと異名を取ったH1ーR~H2RとUSカワサキの要望で750ccH2-RがTOP集団で行列を繰り広げ、派手なツナギでUSを暴れたようである。
 
 その他、
川崎博之・辻本 聡・木下啓司・徳野政樹・宮城 光・八代俊二・植田 昇・水谷 勝・上野真一
清水雅広・大本十生・高井幾次郎・江崎 正・伊藤 巧・三浦 昇・大島行弥・山本陽一
斉藤光雄・片山敬済
カワサキ
岩道 博・根本 健・杉野順三・阿部孝夫・宮崎祥司・岡 正弘・井筒仁康・多田喜代一
宗和孝宏・塚本昭一・梁 明 ・斉藤昇司・日下真一

 マダマダ沢山のライダー年を取って忘れた~また思いだしてエピソード等ご披露します。

                                      t-hirai
  

                                    
# by toshi-hirai | 2012-05-06 08:16 | Trackback | Comments(0)
 今日で「六甲伝説」に出てくる戦友の話は書きキレないので終わりにしようと思う

 毛利良一
 「僕はいつも優勝するつもりで走っています」
 こう云わしめるほど彼は勝ちまくったライダーである、デビューレースは’68年の8耐その時はリタイア彼18歳の時、それ以降これはイカンと六甲を真剣に攻めたそうである、その努力が知らないサーキットで威力を発揮したと自分自身が回顧している。
 イケメンの面魂その秘めた中の闘志ソレハネあまり勝ちに拘らなかったからか?しかし、8連勝して追われる立場に立ッた時、一生懸命練習したそうな、欲のないレースが勝ちを呼んだのか(阪神に聞かせたい)

 このクールな顔に似合わずレースが近ずくと短気になるらしい・・・
 引退後芦屋でフランス料理店を弟さんと経営していたのである、その彼と「片山義美60年会」久しぶりに再会出来たのである。

 杉尾良文(これまた同じチームで戦った親友MXだが紹介したい)
 「俺は頭を取るためにレース場に来たのだ」と言わしめるまでには、悩み苦しむ時が多々あったそうである、ソレハネ彼高校卒業後一度就職すぐにやめてカワサキのテストライダーになり運命の人、竹沢正治に出会った事に始まる・・・

 左からキヨサン・平井・杉尾・竹沢の面々
 竹の加入は杉尾にとって励みでもあり彼の転機にも繋がっている、ソレハネ竹沢は二階級特進セニアに、自分は力でもぎ取ったエキスパートジュニアのママ(これはメーカーのエゴ、平井は2階級いずれも優勝を狙ったから竹はセニア・杉尾はエキスパート)ここで悩んで片山に相談4輪のドライバーになりたいと、ところが片山にプロとは何たるか?を教えられ自分はMXでプロのライダーを目指そうと決心、ヤマハに行ってしまったのである。
 そうして’75年には125ccのチャンピョンに’78年にはホンダと契約’80年にはホンダに初の250ccチャンピョンをもたらした、これはホンダの体制(良くライダーことを考えてくれた)に恩返しをチャンピョンと言う形で返して行ったのである。
 律儀な彼の性格がお父さんの勧めで県会議員に5期?も頑張らせた根性を培ったのである。(今ちょっと充電中)彼の事を話したら何時までも続くが今回はここまで・・・杉尾&竹沢の競り合いは次回MX集で・・・


 従野孝司
 彼は、片山義美の二番目の弟である「六甲山はレーサーとしての1から10まで全部教えてくれた」兄貴の教えが、既に兄貴&歳森康師は2輪を卒業4輪のドライバーとして歩き始めていたのである、その後釜にすんなりカワサキと契約2輪のプロとして走り始めたが、カワサキのMXには他車に勝てるポテンシャルがなく(孝司が走らなかったのでは?)すんなり二人の後を追い4輪ドライバーになってしまった。
 彼は六甲山を自分の練習の場として、ドライビングのテクニックをそうしてトレーニングを行い車の特性を掴み基礎を培った一人でもあったのである。


 片山敬済

 彼ほど話題の多いライダーもそう多く無いのでは?しかし、よく走った彼がPPを取りレース前に表彰の際、マントを着て自分自身の歌が流れる中(コロンビア?でプロの専属歌手)、颯爽とトロフイーをソラに上げた時の姿は忘れられない。
 その彼もまた六甲山は練習の場であった朝4時から、前出毛利と一緒にトレーニングそれはエキスパート時代であり既に世界チャンピョンGPライダーを目指していたのである。

 彼は言う走りはリズムだ・・・自分の頭の中でワンショットワンショット描いて刻めば、それがリズムにそうしてハーモニ-をかもし出して“踊れる”ようになる、その心地良さが恐怖や無謀をフットバシ素晴らしい発見があると言い切る「自分の旋律を常に変えて走る、メインテーマ-は常に一つだけだから」イヤー格好イイである。
 


 そのほか沢山のライダーが居るがタッチャンに長すぎると怒られそうだから次回チャンスがあったらご紹介しよう。

 

 左から辻本・大島?・宮崎
 

 八代
 まだまだ我がカワサキの戦友(ヒロサン・キヨさん・キヨカズ・ソウワ・昭一・明・井筒・北川等々)
 

 これは多分多田喜代一の雄姿共に戦った戦友である・・・

 もう一人六甲山の仙人こと歳森康師
 

 世界一速い男 星野一義と歳森康師  この二人の事は多くて次回にチャンスがあったら特集だ~

 「六甲伝説」主体に書いてきたので勿論みんな友達であり、良きライバルであった、しかも、みんな六甲ドライブウエーイにお世話になったツワモノたちである・・・

 これは昔昔のお話、今はみんな真似をしてはいけない、その当時は交通量も交通取締りも少なかったし、みんなほかの人に迷惑を掛けなかった?

 再度お願い・・・今は真似をしてはいけない・・・・近くに俺の作った「セントラル・サーキット」カッコイイ&「岡山国際」世界の「鈴鹿サーキット」があるではないか、そこで思い切り楽しもう・・・

                                   チャンチャン         t-hirai
# by toshi-hirai | 2012-05-05 07:56 | Trackback | Comments(0)
< 前のページ 次のページ >