IE9ピン留め
・・・一休み終了・・・続けます・・・前回の分も見てください。.exbloghttp://toshihirai.jp/17288718/   決勝では好スタートを切った塚本選手快調に飛ばす。2分13~15秒で周回を重ね、X-FクラスTPOの総合11位でピットイン、代わった山田選手も必死の走行12位をキープ、ところが47周目クラッチトラブル、デグナーでコースアウト何とかピットに戻り、それこそ「必死のパッチ」修理に挑んだのでした。
 チームメイト鼓舞するかのごとく、自らワークスのピットに・・・アホ・・・ワークスに量産の部品なんかあるもんかい、しかもやで!ワークスも必死にやっている最中、もし僕がやっていた時なら「コラ何しに来た~」こっちも一生懸命やってるのや、邪魔スンナ出て行け・・・と怒鳴っていただろう・・・しかし、そこで似たような部品を貰い、ピットで修復したのであります・・・これがカワサキの良さや・・・


 再スタートに(修理に)時間がかかり再度スタートするものの50位迄順位が落ち、おまけに再スターと一周目で再度ピットイン約10分のロスタイムもう後ろも居なかったんでは?と思うぐらい順位を落として51位で周回を回り出したのでありました。

 

 サーこれからが昭一の凄さ追い上げる追い上げる猛チャージ他のライダーには悪いが下位チームとはタイムが違う2分13秒でスプリントレース並み76周目には40位129周目26位迄順位を上げる、終盤迷監督は順位を上げるべく山田に囁き、昭一の続投ガソリンの給油&タイヤ交換でピットを後に・・・前を走っていたクラス2位の中川 実&岸田尊陽組(H)の監督はまたもや昭一が出て行ったの見て勝負に出たのであります・・・

 ライダーを変えずにそのまま走らせ、ピットでのロスを稼いで2位をキープする作戦に(ここが焦った監督の読み違い・当然ライダーも監督の意図を感じアクセル全開、昭一をブロックしょうとしたのでは?考えが甘い・・・ソレハネ追われるマシンは唸りを上げてエンジンを回したのでガス欠でエンスト)作戦は良いのだが、ガス欠まで考え無かった監督の負け・・・へへへその時、迷監督は既にメカニックに相手ピットを偵察にガソリン給油の準備が無いのを知って笑っていたのであります。

 マシンが再スタートした時点で迷監督は皆に、お立ち台や~クラス 3位 総合18位を狙えるとチームメイトに宣言(誰もが半信半疑信じなかった)、レース終了時点最後のライダー山田達也が「自分の長年の夢」を見ながらの走行、クラス2位・総合17位と神がかりな天才迷監督の叫びを皆は改めて感じ、背筋に電撃が走ったそうな、そういえば女性は感激・涙・涙・良かったなーチャンスやっのに・・・何の・・・自分も自分の言葉に酔ってしまっていたのである。アアーもったいな~何がへへへへ助平~ソウヤで平イやもん・・・

 そうして最終クラス2位総合17位でチエッカーを最終ライダー山田達也は長年描いた自分の「夢」を実現し、又、昭一の友情そうしてガッツ、チームメイト皆の力を全員が充分に出し切り彼らの青春の一ページを刻んだのでありました。

 これで終わり、良かった良かった昭一さんこの時の原稿もう良い今度はラスト「自分で書きたいことを書いて」長かった「昭一の思い出」を終焉にしょうか?有難う塚本さん・・・しかし、エンデングはあるよ・・・
                                                
                                                         t-hirai
# by toshi-hirai | 2012-01-29 11:50 | Trackback | Comments(0)
・・・マタマタ「コーヒーブレーク」どうも「昭一さん」は多忙なヒトらしい・・・

 今回は彼39歳の時(1999年)仕事仲間の山田達也氏(元KISSレーシング)と「夢」を実現しようと始めて鈴鹿8耐に走った「思い出」をと希望したのだが、何故か筆が動かないのかな?平井自身にはレース活動の中でも一番思い出に残る良いレースだった。

 それは私が「胃を手術全摘」して生き延びた年の夏の出来事、多分昭一が死に土産にもう一度レース場に立たせてヤロウと仕組んでくれたストーリーだったのだ、ところがドッコイ未だにピンピンしている、不思議なもんである。

 しかし、この頃は聊か年を感じるところがある、それは仕方ないか?事実歳を取っているのだからと自分で慰めているが、マダマダ「若いもんには負けない」で行きたいもの同じ年のrfuruyaさんもヤレTHE GOOD TIMES、ヤレBEAT(ロードレース世界チャンピョン片山敬済氏の主宰する)や、ヤレ三木や、ヤレ電車やと精力的に動かれており、今もABC・TV「朝まで生テレビ」を見て朝の6:00頃には雑感日記「政治家論評」を高々と投稿している、化け物では?いつ寝ているのか?そうかオジンだから寝るのはナポレオン3時間で良いのだな、私なんか若いから?(rfuruyaさんとは約半年若いだけだが)夜は10:00~朝3:30迄、5時間ほど寝なければ未だに現役どうしても会社で居眠り(これはイカン)と言ったところ、長生きをすれば少しは「世のため人のため」私は私なりに出来ることで恩返しを・・・

 長生きをして、ピチピチした「AKB48」に胸を躍らせ「あのスカートもう少し軽くしたら」良いのに・・・「あのメガネのおっさん頭イイナ~テナコト考える」・・・rfuruyaさんとは違うおじいさんが居ても良いやろ・・・テナところである。

・・・オッと話がそれた1999年のレースや・・・ソレハネ男の友情から始まったのである・・・


 1999 SEPTEMBER kawasaki Riders'Club 「KAZE」 VOL.104の記事をご披露する
 念願のチームを設立し8耐に挑んだ山田達也選手はライダー兼監督(これは間違い監督はあの有名なチームグリーンの迷監督平井さんであるプンプン「マ・イイか」)パートナーにはカワサキフアンならご存知元F-1チャンピョン塚本昭一選手」を迎えた。
 スペシャル・ステージでは山田が走行中ブレーキキャリパーのサポートが破損するというトラブルに見舞われたが、相棒の塚本選手が実力を発揮2分13秒240でポジション18位を確保スタートを迎えたのである。

 少々眠たくなってきました・・・少しコーヒーを頂きます・・・
                                                      t-hirai





  
# by toshi-hirai | 2012-01-29 08:37 | Trackback | Comments(0)
・・・1992年ソレは僕に取って人生最大の歴史を作る一年になりました・・・

 まさか自分が本当にチャンピョンなんて!(ウソ抜かせ何時もチャンピョン・チャンピョン言っていた)
ソレハネ・・・コツコツとした積み上げが大事な事と実感しました(あたり前田のクラッカー)・・・
 
 1992年チームメイトのソウ和がアメリカえ、ドーソンは解雇!!!チャンピョンに一番可能性があるのが、僕でした(ケンソンすな、誰が居てもワシャ・・・ではないか)勿論、1991年の出来ばえ・・・うまく行けば可能性はあると体中で感じて居りましたし、気持ちは「チャンピョン」と考えることにしました。

 第一戦が始まると例年に無いアクシデントの連続(最後までな!)波乱万丈のシーズンとなってしまい、数々のドラマがありました。


 第1戦の美祢は悪天候で中止、続く第2戦の筑波,スポット参戦した後輩の高橋がスタートから2~3周後、1コナーでヤマハの故永井と接触転倒! 高橋の直ぐ後ろを走っていた僕はコケた高橋のマシンに乗り上げるように転倒!!!(アホ・・・TOPなら乗り上げたりなんかするか)しかしである、毎度「チャンピョン」と唱えることにした初戦・・・「チャンピョン」なるためには1ポイントも落とせないと・・・すぐさまマシンを越し再スタート、勿論「ドン尻」でもねワンポイントでも最後に役に立つ落とせないと必死のパッチ一人で多くと最終8位まで上がりました(オーソレミヨー7ポイント頂きやんか)
 ちょっと聞いて下さい・・・追い上げ時のラップ・タイム優勝したホンダの武石よりも速いペースだったのでした(ご苦労・・・カワサキのマシンはホンダに勝るとも劣らない素晴らしいマシンなんや信じなさい)

 その時も「チャンピョン」を忘れなかった私の精神力が第3戦に、4メーカーのし烈なる戦い・・・が・・・でも後ろをブッチギッテの優勝でした(ソヤ思い出したやれば出来る)しかも今後の展開を予測するに十分な状況で有りました。

・・・しかしレースは計算どうりには行きません第4戦?鈴鹿200kmと言う8耐の前哨戦これは有名ですが、この時もスタート直後の2コーナーで当時スズキの北川選手のラジエターからの冷却水に乗って転倒リタイヤ!(TOPを走ればそんなことない)そしてTOPで出た菅生では異例の1・2・3フニッシュ塚本・宗和・北川・・・ここまでで僕はランキング2位、第1位はカワサキの北川圭一僕との差は5ポイントこれからが勝負・・・

 続く菅生でも優勝ここで3優勝、2ポイントと追い上げ2ポイントの差で最終戦筑波へ順位を上げてでの参戦でした・・・ポールを獲得(ヨッシャTPOを走れるヤン)
 ここからは前回も書きましたが、アクシデント続き三度目の正直か?私がポールで平井迷監督の怒鳴っていた「信じること」通りの・・・ポールTOフニュシュ優勝「チャンピョン」に輝いたのであります。

 (イヤー本当に昭一が「チャンピョン」信じられない程、嬉しい1992年でした)

 もう一度見てやってください



 睡魔が今私を誘惑しにやってきました皆さん「おやすみなさい」
                                                t-hirai


 
# by toshi-hirai | 2012-01-22 05:15 | Trackback | Comments(0)
・・・イヤー総勢21名?マアー良くもこんなにテーマ-である「異種・異質・異地区の人々が一堂に会し」盛り上がる、不思議なもんである?、しかし、全員が楽しかったに違いない、かくいう私も大満足であった・・・

 マ~シャベル~シャベル延々6時から夜中の2時まで8時間しゃべりあり、笑いあり、小競り合いあり、いったいナンヤてなところでした。

 集まったもんである異種は(リタイヤ元気もんの理事長・オートバイ屋さん・オートバイの部品屋さん・PC担当屋さん・オートバイを愛する屋さん・ライダーさん・会社員さん・政治家さん・ご隠居さんソウソウ三木を愛する人等々・・・老若男女)、異質は、全国二輪車協同組合の会長吉田純一さん、BEATの片山・広岡ご両人、初めてレースを体験した濱田須磨子さんとご主人になる人(市会議員さんである)ホンダNSR時代のOBレース監督渡辺さん、そうして何時もの理事さんたち、おまけに異地区東京・神奈川(関東)大阪・神戸(関西)理事軍(三木・加古川・社等々)

 ・・・素晴らしいなんと賑やかな会合である、しかも、しっかり理事会もチャーンとクリアー立派である・・・


 にこやかな顔・顔・そして顔、早くご飯を頂きたい、イヤ乾杯や~(前列左が紅一点濱田さんのご主人なる方)


 ロースの上等霜降り・生き造りの舟盛り尻尾を見てごらん動いておらんカメラブレや、コリャ活ける

 五月蠅い鍋奉行の指示???イヤ司会者に(タッチャン)指示、エライサンの純ちゃん

 お寺の住職による講話・・・乾杯と思いきや付けたし講話・・・そうしてヤット和尚の音頭でハジマリ・ハジマリ

 カワサキの柏原さん、東京の蘇原さん(幸せなような顔、2月に結婚???テナコト仰いましたのね~)

 古谷・丸山・渡部各氏&紅一点初心者マークのレーサー濱田さん(ご主人になる人はイズコ?)

 60おじいさん・松島さん(ご両名理事さん)渡辺さん(元ホンダのレース監督)各氏作戦会議中

 ヤカマシ軍団の古谷・平井・渡部・吉田(本日の幹事)柏原各氏の現在シャベリの準備中

 お疲れさん幹事のお二人

 朝のバイキング(和洋バイキング)、流石カワサキの保養所ご馳走ばっかり???しかも、安い・・・

 翌朝(21日朝早くから)真面目に理事会、今年の関東NPO法人TGTのイベント開催の説明&質疑すべて、OKである・・・マー大らか・・・こうやってみんなが参加する良い企画が?・・・

 朝の理事会参加者全員、少々カメラ振れ・・・まだお酒が・・・

・・・この後、三々五々解散でしたご苦労様今年の関東のイベント、又、来年の新年会を約し(来年は六甲山に建設中であるカワサキの保養所でと吉田さんにお願い)閉幕となった。

 追伸 神戸ワインの差し入れ(ボケモン修さん)有難うございました。
  写真は60オジサンのブログをご覧ください・・・

 こうやって名前と写真を提供しても、どなたもお解りにならない「あたり前田のクラッカー」・・・新聞に入っている広告と一緒、作った人(写した人)、配った人(集まった人)、広告主(写された人)しか見ていない・・・
・・・新聞に入っているチラシなんてそんなもんであります資源の無駄・・・勿体無い・・・
 
# by toshi-hirai | 2012-01-21 20:37 | Trackback | Comments(0)
・・・やはり4:00には日曜日と言うのに目が覚めた、「人間」・・・なんて不思議な動物だろう(イヤ僕だけかな~)
 昭一からは忙しいのか原稿が届かない、思い出を探ろうと2010年11月に発売された「レーサーズ」を手元に振り返ると見開きにあのコークさんの雄姿がKR500と共に飛び込んできた。


 ’78~’79年ライムグリーンのタンデムツインKRは圧倒的な強さでGP250/350を制した、そして残された野望は最高峰GP500への挑戦だった・・・

 そこにケン鈴木の顔があったのである、


 ケン鈴木&コークバリントンも若かりし青春の一ページを刻んでいた絶頂期の顔であろう

 若かりし頃のケン鈴木(呼び捨てゴメン)が蘇っていたのである、思い出した、先日もうすぐ1ヶ年になる昨年の3月あの痛ましい東北地方を襲った地震そうして津波、多くの犠牲者の方々を一瞬にして悲しみの中に・・・

 その一週間前に私はこともあろうに「カワサキの想い出、そして未来」と題してそれこそ全国の皆さんに明石までお越しいただき大騒ぎをして居たのである(罰当たりな奴)、ケン鈴木ご夫妻にもお願いして応援に来て頂いていた。


右からケン鈴木さんの優しい奥様(昨年クリスマスにカードをありがとうございました)そして当日の主役ケン鈴木、そうしてもうみなさんご存じフリーライターのユキさんである

 

 カワサキとの思い出をご披露いただくケン鈴木さん

 カワサキは1969年AMA開幕戦よりライムグリーンのカラーリング(マシン&ツナギ)であえてUSでは不吉なカラーだった緑を使った状態で打って出たのである。

 空冷3気筒のH-1(緑に少々白も使われた)からH1RでGPにスポット参戦、空冷~水冷に変えてH2R(750cc)を駆り一躍レース界で異彩を放つ存在になって行ったのである。
 (私もアノじゃじゃ馬H-2を乗り回す、キヨサンに明治大学ラクビ-の縞々シャツ調のTシャッをツナギの上から来てもらい、優勝したら兵庫メグロの当時総指揮者であった奥さんに市販H-2を20台買取をして頂いた良き時代であった)

この時期ツナギは皆んな茶色か黒、兵メの奥さんが縞々のシャッ来て勝ったらH-2を20台買ってやる、ヨッツシャキヨサンお願い(カラーツナギのルーツや)

 カワサキがまず本格的にマシンを開発したのはKR250「パワーのカワサキと」言うイメージとは正反対のロタリーデスクバルブ125cc単気筒を縦に並べたタンデムツインと言う珍しいレイアウトのエンジンを搭載して、1975年にデビューしたのだが180度等間隔爆発のためか振動が多く戦績はさっぱり、すぐに対策された前後同爆(素晴らしいカワサキの技術陣何をするのか?)しかし、これが功を奏したのである。
 (どうやら77年にはリヤーサスにユニトラック(モノサス)を採用完成させたのである)

 この様な変遷を経てカワサキは’77年UKチームと日本チームの混成体制でその総指揮を任されたのがケン鈴木であった。
 向かうところ敵なし鈴木健夫(ケン鈴木)とコーク・バリントンが有ったのである、どうやらカワサキはボアーを1mm広げKR350をも投入GP250/350を制覇したのである。
   (僕のまずい文章と違うのはすべてレーサーズよりの拝借である、勿論写真も2・3拝借しました)

 当時のチーム体制ナナントこれだけのチーム体制であったようである?たった5人?

 今日は、昭一の原稿が届かなかったので、こんなコーヒーブレークになってしまった、鈴木さんそして「レーサーズ」さん有難う、何かしらこの「レーサーズ」で思い出が走馬灯のごとくに湧いてくる不思議な一冊である・・・
# by toshi-hirai | 2012-01-15 07:31 | Trackback | Comments(0)
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