「思い出」8
左から大槻・百合草・和田の3氏である「カワサキの想い出、そして未来」トークショーの一コマ
「百合草三佐雄」この人こそ、カワサキ2サイクル・スーパースポーツの原点ではなかったかな?、(持ち上げすぎ)
後発メーカーと言われながら世に出て行った、カワサキスパースポーツ「サムライA-1」、当初は輸出用として川崎が初めて取り組んだ250、同時にアメリカで販売会社がスタートした昭和40年代であった。(ちょうど私が豊岡(営)所長時代である)
百合さんはその時テストライダーヒロさん(和田将宏)と一緒に量産前のテストにアメリカに出て行ったのである。
サムライA-1のライバルはスズキT20とヤマハのYDS3だったらしい、しかし、A-1は他社より重たく 04ではるかに劣っていた、百合さんは本社である明石工場に車重軽減を要求、回答は・・・NO・・・何故・・・シリンダーの材質を鉄からアルミに変えるだけで5㎏も軽くなるのに・・・
(結果は量産初めからアルミシリンダーだった)
当然、A-1Rを造りアメリカのレースに殴り込みライダーはディックマンとかラルフ・ホワイト結果は惨敗、ここでの修練は、これからのカワサキの進路を決めたと申し上げても過言ではないのでは???
サムライA-1の市販が定着した2年後にはすでに次期モデル H シリーズの検討が始まっていたのである、何か特色をとはじめられたHシリーズ、当然3気筒(レシプロエンジンの理想的なバランス配分が得られる)しかし、A-1で成功したロータリーが使えない「A-1をボアーアップしても限度がある」「パワーを要求するとピストンスピードの限界もある、ボアーあげると冷却の問題、ストロークを上げるとピストンスピードが上がる」 面倒なことばかりあえてカワサキの技術陣は3気筒 H シリーズの開発に踏み切った。
・・・より高い理想に向かってカワサキの技術屋さんは立ち向かった
まさにその渦の中に我らが百合さんが居たのである・・・
・・・百合さんは常にアッと驚くものに挑戦する素晴らしいガイであった・・・
(今日は少々持ち上げすぎ)
t-hirai