Team Green

「昭一の思い出」12

・・・多くの不安の中からの復帰、あのMXの時ワークスの怖いメカニックのおじさんどうも苦手で(ソレハネ昭一が遅かったからやないか?)
 「プロはこの環境の中で結果を出さなアカンのやな~俺には絶対無理」てな感じでMXの時、泣き泣き石川県に帰ったのにマタマタ帰ってきた自分の浅はかさメカニックの皆さんは?(考えて帰って来たのでは?・・・)

 ところがであるロードレースの環境は伸び伸び走れる様子(甘い甘い環境はチームグリーンとワークスは天と地の差があるのである)
 しかし、結果を出さなアカン素晴らしい環境の中で「イッチョヤッタロカ」この楽しめる環境に感謝したのであります。
 
 田舎の山本さんに背中を押して貰えなかったら自分で断っていたのかと思うと今でもゾーとします、人生大事な時に背中を押してくれる良い出会いでした感謝感謝であります。
 
 僕が乗るスーパーマシンはコードナンバー515、チームグリーンの自信作! GPZ400RのF-3マシン、
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仕事は、レースに行くと自分のレースを走る時以外ワークスのビッグマシンの磨き屋&日常はテストライダーそれは楽しい環境でありました。

 GPZ400Rのマシーンは前年に宗和が鈴鹿の最終戦でポールを獲得、雨の決勝ではぶっぎり優勝かと思わせたもののこともあろうに最終ラップに2コーナーで単独転倒!カワサキらしいドラマを演じたマシンです。

 私の初乗りは5月か6月だったと思いますが、これまた土砂降りの富士スピードウェーイ宗和&多田、平井監督の言う漫才ペアーと初顔合わせ、二人の前で雨に濡れたコースをコケそうになりながら必死に走ったことを覚えております。

 迷監督も4耐に向けて相棒のペアーライダーを探して居られました(昭一をメインに相棒を同じような体形ポジションを考えそうしてタイムもそこそこ出せるライダーを特約店に求めて)当初京都のボブキャットに所属していた志賀さんに決めていたが、残念鈴鹿の練習走行で転倒、鎖骨を骨折をしたために、急きょ石田元広と言ううどん屋さんの息子イケメンに決定、耐久開始までの間何度もテスト兼練習を重ね、改めてメーカー系のチームの環境の良さを痛感したのでした。

 イヨイヨ本チャン4耐決勝は、平井迷監督の作戦どうり?(タイムの早いライダーが第一ライダーでは?)私塚本昭一が初めに走り10位以内に食い込みそのまま繋いで5位に入ろうか?テナコト監督の指示で(迷監督はあくまで優勝を狙って居ったんじゃ)一時間後8位で石田にバトンタッチ・・・耐久はイヤレースはチェッカー受けてナンボや~このままでいけばお立ち台テナコト思っていた矢先石田がシケインで転倒ピットに超スローで帰ってきたのです?結局、最終15位完走でしたがあまり良い成績ではありませんでした。

 迷監督に怒られとにかく走り込んだのを覚えております、コースも鈴鹿・筑波・中山等 中山サーキッのコースでは宗和のタイムを上回るタイムで走っておりました。

 宗和は既にワークス国際AクラスでF-3マシンで走っておりました、私も1997年国際A級に平井監督のMFJに書類申請をしたものの成績が無く2階級特進はならず(メーカーから申請で却下されるのは初めてらしいが仕方ない、それはね昭一があまりも速いからどこかのメーカーが反対したのだよ・・・素晴らしい)ショウナイなージュニアで走ることになりました。

 ヨッシャそれでは実力で国際A級をもぎ取れと張切って第1戦に臨みましたが、ホンダのNSR250が登場2サイクルの強みで上位を独占、オマケニタイヤもバイアスからラジアルにレギュレーションが変わり、私も迷監督にお願いしてスリックからラジアルに移行(ラジアル用アルミホイルは眼が飛び出るほど高いもんヤッタ)デモデモ如何せん体重の重さは致し方なく、重戦車GPZ400Rは苦戦を強いられておりました。

 迷監督は、マシンはホイルとエンジンがあれば良いのやアクセルを開けまくれとの強気の発言、コーナーでタイムを稼ぐ「コーナーを早く走る」練習を重ねて行ったのであります、その甲斐あって練習は誰よりもさせて頂きました(ソウヤそれがお前のチャンピョンに反映されているのやないか?と迷監督は言う)翌1988年もジュ二アクラスでA級目指して走ることになりました。

 相棒もオオバ・レーシングからの移籍で三浦 明(HRCで当時大活躍されていた三浦 昇の実弟)と一緒に走ることになりました。
 マシンも新型ZX-4&KR-14サイクルと2サイクルが与えられ平井監督は自分の走り良いマシンでレースをエントリーすると、あくまで勝ちにこだわったのでしょう。
 オイオイ一人のジュニアライダーに4サイクル・2サイクルの各レーサーを準備してお前らの走りやすいマシンでエントリーとは?しかし、相手はNSR軍団!一台を乗りこなすのにも大変なのに2台もマシンがあったらどっち取らずになると、僕はZX-4、三浦はKR-1という形でレースを消化して行きました。

 表彰台にも何度か上がりましたが迷監督の願い優勝は出来ませんでした、デモデモ年間ポイント4位念願の国際A級に昇格したのであります。

 1988年国際A級と同時に田舎で結婚式を挙げ責任の重さが一重にも二重にも肩に掛って来たのです、しかし、KHIの明石工場の隣にあった社宅に住まいを構え来年からファクトリーの一員として契約して頂いたのでした。
  
 平井迷監督のもとで鍛えられ「馬鹿・アホ」と怒鳴られ、鞭打たれ、ある時は褒められ・ある時はボロカスに怒られ、ナンヤ俺の人生と思ったことも何回もありましたが、「平井監督には本当にお世話になりました」これからカワサキで恩返しや・・・一生懸命教えを守りチャンピョンにと誓ったのであります。

 平井の言葉
 ・・・「良くヤッタ・感激した」であります・・・次回からスプリント・耐久(チャンピョン・鈴鹿8耐・ルマン24H)と続けてくれると思います。
 写真は沢山あります「昭一の思い出」13で写真をご披露致します、まずは一休み正月正月・・・

                                            t-hirai
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by toshi-hirai | 2012-01-03 12:13
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