Team Green

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「カワサキプラザ明石」終焉に思う!!!③

 今日は昼から終了する「カワサキプラザ明石」にいってきました。
 カワサキフアンが大勢来られており、最後の18:00まで名残を惜しんで居られた様子で、重ねて残念でなりません、私も写真を取り思い出に感無量でした。
 今日でお別れ「NPO法人THE GOOD TIMES」副理事のタッチャンとも、しばし、思い出話を交わし労をねぎらい今日の会合の為さよならをしました。
 夜の会合は、兵庫県安全運転指導員部会の有志で50会を結成しており、年に2~3回旧友を暖めております、今日も愉快な仲間との会食でした。
 少々夜も遅いのでこれからボチボチご紹介をしてまいります、乞うご期待です。おやすみなさいthirai
写真は、 カワサキプラザ明石内部の風景/カワサキプラザ明石/25年間カワサキプラザ明石を見守った明石安全協会寄贈の大時計
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by toshi-hirai | 2009-09-28 01:03

「カワサキプラザ明石」終焉に思う!!!②

 ・・・今日でお別れ「GRP」沢山の想い出を有難う・・・
 それは「西部警察」のテーマソングから始まった兵庫県警白バイ隊の模範演技5台の精鋭が繰広げるスラローム、本当に音楽と動きが一致したスバラシイものでした。
 コースは、大型2輪の免許取得の練習場(無料でしたARKからの依頼のみ)・ジムカーナーの決戦場・原付講習の会場(今でもコースにある大時計は明石安全協会の寄贈のもの?)白バイ隊の格付け審査の練習場・川崎重工㈱実験研究所属テストライダーの格付け審査・安全運転全国大会兵庫代表の練習場・各モデル専門誌取材の場・勿論社長挨拶の「グッドライダー」安全運転レベルUPの場・ニューモデル試乗会・そうして現在のライデングスクール等々・・・沢山の夢を有難う・・・たまたま今日昔の安全運転の仲間(カワサキの原付講習指導員)と明石で会食の日「カワサキプラザ明石」に行って来ます。
 写真は、日本生命の社長が明石工場視察の際(オートバイが好きだったらしい)特に希望されたオートバイ見学(試乗はされなかった)人物より建物をご覧下さい。①自動販売機の設置場所②後ろの小屋(私の横がニッセイの社長お名前はすみません忘れました)③安全運転コース
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by toshi-hirai | 2009-09-27 06:34

「カワサキプラザ明石」終焉に思う!!!

 カワサキプラザ明石がもう直ぐ閉鎖を迎えるに当たり、今日「Team Green」の資料探しをしていたら出てきました、愛称「Good Riders Plaza」竣工披露祝賀会のご案内及び大庭社長挨拶原稿(まさか私が考えたのではないと思うが大半はコース・社屋・ショウルームの案内なので私がアドバイザーは間違いない、そうして最終監修原稿が手元に残っていたのでは流石真打の平井である)イヤー寂しさと・悲しみが何故お客様に愛されたプラザが閉鎖なのか?、色々問題はあるのでしょうが、天下のカワサキが頑張って継続出来ないとは・・・、初代コース管理者?としては残念です。
 皆様に愛された「カワサキプラザ明石」の記録を残したく「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」の間を縫ってご披露いたします。
 当時のあの社屋及びコースは故大庭社長のご挨拶に全て納められており迫力のあるものでした、ご本人の挨拶も脳裏をかすめ、川崎重工業㈱の社長を「大庭」と呼捨てしているのは平井だけやと冷やかされたり(これは司会をおおせつかって社長大庭より一言御礼を申し上げます」と紹介しただけなのですが)県警交機特練隊の模範走行等色々想い出します、社長のご挨拶はもう足掛け25年も経過しており社長の当時の迫力ある意気込みをご披露しても問題ないと思いご披露致します。
 大庭社長 挨拶原稿より(あまりも長いので途中カットもして居りますお許し下さい)
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S61年3月5日
 只今紹介のありました大庭でございます、本日はカワサキオートバイ販売㈱新社屋及びカワサキ安全運転推進センターの竣工披露に際し・・・昨年9月に着工依頼施工を担当されました各社のご努力により、本日ここに無事、落成の披露を行うことが出来ましたことは私の深く喜びとするところであります。
 又、本プロジェクトの遂行にご協力いただいた川崎重工業㈱本社関係各部門にも併せて感謝の意を表します。
 当社屋は延べ床面積960㎡、鉄骨3階建てで外壁は総アルミパネル貼りで敷地の形状を生かした個性的なものとなっており、各階の利用目的をそれぞれ申しあげますと、一階はショールーム、2階はカワサキオートバイ販売の本社事務所3階は安全運転講習受講生の為の教室であります。
 それから、拡張工事を行いました安全運転訓練コースは外周路、直線路、踏み切りなど各種課題走行訓練場を整備し、コース総面積は従来の4,700㎡の約1,6倍の7,300㎡としました、これは法令に定める二輪車運転講習の為の条件を充分に満たし、カワサキは安全運転推進活動をこれまで以上に推し進め、二輪車メーカーの社会的責任を果たすことに専心致す所存でございます。
 一方ショールームにつきましてはカワサキの国内現行機種に加えて輸出専用機種及び歴史車などを展示し、ユーザーとメーカー及びユーザー同士のコミニュケーションの場としての提供を意図しております。
 これはユニークな、カワサキフアンが気軽にお立ち寄り頂ける、立ち寄りたくなるような魅力あるものに育てたいと考えております。
 2階に国内販売を担当するカワサキオートバイ販売㈱が入居し3月10日より営業を開始いたします、これも工場の中にありました業務活動を工場の外に出る事により販売の第一線に近づくことになり、これまで以上にマーケット志向を強め、心も新たに営業活動に専念いたす所存であります。
 ここに私は施設全体を表す愛称を「GOOD RIDERS PLAZA」略して{GRP}と命名いたします、今後この愛称をユーザーの皆様から親しみを持って呼んで頂けるよう広くPRして参りたいと存じます、カワサキはこれまでの輸出重点指向から国内市場重視の姿勢を強め、今や国内は米国と並び2本の柱となっており今後カワサキはユーザーの皆様に愛されるカワサキ史上最強のラインアップを持って社員一同一丸となり取り組んで参ります、本席お借りいたしまして一言皆々様に強力なご支援をお願い致しまして、ご挨拶とさせて頂きます。
非常に力強くお客様にご挨拶された想い出が今走馬灯の如くよみがえって「継続に意義が!OBの方たちの努力を消す事無く、認めて突き進んで行って欲しかった」と思うばかりです,少し長いご挨拶でしたが終焉に向けてご披露致しました、27日でお終いです是非お立寄り下さい。thirai
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by toshi-hirai | 2009-09-23 21:33

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」25

 MX全日本選手権鈴鹿大会で昭一は右ひざ靭帯を切ってしまったのです、直ぐに救急車明石に帰ってから当時カネボウ病院に日本で5本の指に入る名医が整形に居られるとの事、早速見てもらいました「監督残念だが手術で靭帯は治るがレースは断念し無ければ彼のヒザは一生ダメになりますよ」と念を入れられてしまったのです、昭一の人生の最大の岐路でした、このことを彼に告げるとき私の苦しみ・悲しみ分かってくれますか?二人とも泣いていました・・・昭一は走りたい気持ちを押さえ故郷に帰り父親の仕事を手伝うことになったのです。
 昭一にとってこれからのナガーイ人生金澤に帰って体を労わりながらの仕事か青春の一ページ一貫の終わりかと思っていたのですが、レースの女神はお忘れで無かったようです。
 「監督昭一が走っています」鈴鹿でのスポーツ走行の時だったと思います(涙涙の別れから約3年の時が経過していました)「アホ昭一は金澤や」「イヤ・アイツや」確かに昭一が走っていたのでした、「オイ呼んで来い」テナことでチームメイトとの再会でした。
 楽しみでチョッと走っていますとの事、私は2っ気に食わん一つはマシンやFZ400とはナンジャ?もう一つは鈴鹿サンデーレースF-3クラス3位・・・
 「昭一お前は分かっておらんどうせ散るなら煌びやかに散れ」訳のわからんこと言ってteam greenに帰って来いと説得、本人は悩んだようです、しかし、明石にカムバックする事に、その時には既に迷監督は鈴鹿4耐の相棒をかのホンダワークス三浦昇の弟三浦明をオオバレーシングからやっとのことで来てもらうことにしていたのでした、おまけに一台では寂しいもう一台やライダーは京都の志賀モータースの息子相棒はうどん屋健ちゃん組イヤー賑やかになりました、結果は完走15位コラアカンは・・・
 この時にはもうチーム38と合併(’83年くらいから)チームは出来ていたのです(徳野の移籍問題・喜多の交通事故死・岡&故新谷組ホンダと問題ありの優勝物語等沢山想い出は出てきますが今は昭一)昭一さんはレースごとに腕を挙げ特訓の成果かGPZ400を駆り全日本ランキング9位、28歳の時にはZ-4でランキング4位着々と順位も上がり、憧れの国際A級に昇格翌29歳の時TTF-1クラスランキング9位30歳’90年の時には、X-09(2サイクル250ccレーサー)の開発ライダーにまで成長していました。
 ’91年にはそれこそ念願のTTF-1シリーズで国際A級で初優勝を果たしランキング5位、チャンピョンの下地は出来上がってきたのでした。thirai
*写真上は塚本&三浦組鈴鹿4耐・下'85年のteam greenの全貌(昭一・明は撮影の時いなかった?)
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by toshi-hirai | 2009-09-23 06:06

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」24

 ボク迷監督は販売会社が行うレース活動の持つ意義を
 ①宣伝広告 ②販売促進 ③顧客サービス ④技術革新 ⑤関係者への士気の高揚 
と位置付け、全国のカワサキ販売店・特約店・ARK(カワサキのオートバイを取り扱っているお店の総称がこの様に時代と共に変って行きました、今は正規取扱店これを語るなら・・・rfuruyaさんが真打)よりMXを愛する子供達の推薦を得て、夏(この頃には既にKXのニューモデル発表)冬(販売後の購入者を対象)二回約20名ほどを明石に集結して毎年「TEAM GREEN」の合宿を実施して居ました。
 私はライダー天才の素質を求めて、子供達には①勉強 ②食べること③鍛えることを主体に、厳しい優しい総長こと中岡のオートーちゃん・鬼の野宮コーチ・優しいマネジャー嵐さん・メカニックは、初め販社の皆んな後日専属の土師・池内・岡野さん等々、この合宿で私は来年のTEAM GREENのスター新人2名の選択をスタッフ全員で決め、鍛え鍛えて秀才「天秀才」を作ることに励んだのでありました。
 「天秀才」いい言葉です「私の夢のテーマ」であり「TEAM GREEN」はチャンピヨン製造機でした、イヤー話が私達の宣伝になってしまいました、話を戻して「昭一」に戻ります、私との出会いは昭一さん17歳の春、金澤のバイパスオートの所から始まります。
 迷監督には、紅顔の美少年・明るい好青年(チョッと年が?)コラーTEAM GREENにピッタリ、高校卒業後早速TEAM GREENの一員に、スタッフ全員の鍛えに耐え、頭角を表し早い早いMX2年目にはジュニヤークラス年間最優秀選手に輝き(ロードレースTTF-1チャンピョンになる幕開けでした)
 翌年国際B級に昇格順調に全日本ランキング32位、次の年31位(一年かかりで一つだけUPか・・・アホ・・・チャンピョンになるのに30年かかるやないか、本当に15年係りました)
 MXからRRに変更する「昭一の運命」かMX全日本選手権で大事件が発生してしまいました。
・・・次回乞うご期待・・・thirai
*写真はMX時代の昭一
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by toshi-hirai | 2009-09-22 09:23

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」23

・・・今回からTEAM GREENのロードでチャンピョンに輝いた男の中の男「しょういち」を紹介しよう・・・
 昭一こと塚本昭一(呼捨てゴメン)カワサキレース部門ではKIYOさんに次ぐ大きな男、TEAM GREENとってもボクにとっても大切なナイスガイである。
 まず、彼のプロフイールから紹介しよう・・・
 ①17歳 モトクロスライダー(金澤でカワサキを販売していたバイパスオートのチーム員から始まり)
 ②19歳 ジュニヤークラス鈴鹿最優秀選手賞
 ③20歳 国際B級昇格 全日本選手権ランキング32位
 ④21歳 国際B級    全日本選手権ランキング31位
 ⑤22歳 全日本選手権鈴鹿大会で右ひざ靭帯切断、手術半年の間入院
       ・・・此処で涙涙のチームとの別れ・・・
 ⑥25歳 ロードレーススタート(鈴鹿サンデーレースでF-3 3位入賞)
       ・・・此処で涙涙のチームにロードライダーとして復帰・・・
 ⑦26歳 TEAM GREEN より鈴鹿4時間耐久レース出場 15位
 ⑧27歳 TEAM GREEN ジュニヤークラス(GPZ400R)で全日本全線参戦 ランキング 9位
 ⑨28歳 TEAM GREEN ジュニヤークラス(ZX-4)   で全日本全線参戦 ランキング 4位
 ⑩29歳 国際A級昇格 カワサキファクトリーと契約 TTF-1クラス        ランキング 9位
 ⑪30歳 X-09(2サイクル250ccレーサー開発ライダーとして従事) TTF-1スポット参戦
 ⑫31際 TTF-1全日本選手権鈴鹿大会 3位入賞(初めてお立ち台に立つ)  ランキング 5位
 ⑬32歳 TTF-1全日本選手権シリーズ 4回優勝、シリーズチャンピョン獲得 ランキング  1位
       ・・・この’92年の戦いはチームメイト北川との1・2位争い年間通して面白いレースが・・・
 ⑭33歳 TTF-1シリーズ優勝1回                       シリーズランキング 4位
 ⑮34歳 スーパーバイクシリーズ この年転倒で右手指先を切断するもシリーズランキング 7位
 ⑯35歳 開発ライダー契約 スーパーバイクシリーズ                 ランキング12位
 ⑰36歳 開発ライダー契約 スーパーバイクシリーズ                 ランキング15位
 ⑱37歳 開発ライダー契約 スーパーバイクシリーズ終了と同時に円満に契約解除
 ⑲39歳 プライベートチーム(チームHBDFORワールドランナーズ)で鈴鹿8耐参戦XFクラス2位
       ・・・この戦いはレースの醍醐味を十二分に出し切った素晴らしい戦いだった乞うご期待・・・
 ⑳40歳 プライベートチームで鈴鹿8耐参戦             Xーフォミュラークラス リタイヤ
   此処でチョッと一休み自分の仕事を一生懸命頑張っているのであります。
   これから「昭一物語」を思い出してご披露致します。thirai
 *写真は明日かばん屋さんに縮小をお願いしてご覧に入れます
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by toshi-hirai | 2009-09-20 21:41

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」22

e0190502_1844717.jpg キヨさんの正式引退は’88年(S63年9月11日)だそうだが、ワークスがRRの凍結でキヨさんにとってはこの’83年の鈴鹿200kmKR1000を駆って優勝した雨の鈴鹿が現役最後の勇姿であったのである。
 時は流れ現役ライダーとして最後の優勝から14年後の’97年再びキヨさんにレースの女神がほほ笑んだのであった、カワサキ社内のチーム38からの依頼だった、マシンは同じ年に新しくラインナップされたZRX1100で鈴鹿200kmのレースに参戦のオフアーだった、その時キヨさんはオン年51歳現役を退いて本腰を入れてカワサキ特約店として販売店経営に勤しみライダーとしては些か遠ざかっていたのであるが「ええ加減にセヤー長い事レーサーに乗っへんのにオレを殺す気か」と言いつつキヨさんは内心、レースに復帰出来る嬉しさで上機嫌だった。
 勿論ZRX1100に関しても、ひとしおの思いを抱いていた「昔エディとレースしとったからな、これはローソンレプリカの再現かとゾクゾクしたよ」結果レースはS-NKで見事クラス優勝、「なんかそのー50過ぎたおっさんだったけどナー、自身ついたって言うかなだからチャンスをくれたチーム38には感謝したいとこやったな」それから更に筑波で開催されたロードレースにZRX1100で参戦、この年はキヨさんは久しぶりのレース活動に、どこか清々しい気持ちを覚えながらの1年が過ぎたのであった。
 私が見ていたキヨさんはチョッと気難しいおっさんか?と思いのほか、私がセントラルサーキット許認可作業に単身頑張っていると多田・宗和の漫才コンビを連れてきてくれて「オイ今日は弟子を連れて慰安に来た」とご飯を食べさせてくれたり・私が頼んだシマシマシャツを着てくれたり、今でも体に気をつけてやれよと声を掛けてくれる、素晴らしいそうナイスガイ・・・ボクにとっては優しいカワサキのキヨさんである・・・・・キヨさん物語は数多く語られており、これからも「ミスターカワサキで何時までも元気に吠えまくって欲しい、キヨさんである」
写真はキヨさん引退レースのアルバムから奥さんに許可を頂いた物であり、スタート時インからゴボウ抜きの場面・親子3人のくつろいだキヨさん・奥様・愛娘ミカちゃんそしてカワサキのスタッフ怒られるかな?です
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by toshi-hirai | 2009-09-19 18:58

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」21

・・・その翌年’82年カワサキワークスに大きな変化が大変ですカワサキがWGPから撤退・・・(へへへ チャンス到来、オートバイを世に送り出しているカワサキがレースから撤退では情け無いと、当時専務のrfuruyaさん(現NPO法人THE GOOD TIMES 理事長)に食い下がり、「止めたらアカン」と細々であったが国内販売会社のカワ販+チーム38で耐久を中心にセミワークスとしてRRも走らせてもらえたので在りました、これがカワサキのマシンの開発にも一役買っており開発も進んだと自負しております、へへへ「この部分はthiraiの独り言」)
 ・・・しかし、ロードレースから完全に姿を消したわけではない、耐久RRを中心にワークスとして活動は継続、マシンの熟成もとどまることも無かった。
 ’83年にはフレームをアルミ角断面に変更出場するレースには力を尽くしたのでした、ワークスライダーとして活躍してきた清原も同じくレースに参戦する限りは常に勝ちを意識して、そしてついについに清原は、全日本選手権などのスプリントレースに続いて耐久RRでも表彰台のど真ん中を獲得したのでした、これが鈴鹿200kmでのことだった。
 この時、優勝候補に挙げられていたチームはヨシムラでライダーは’81年('80年との訂正がありました有難うございました)の鈴鹿8耐でG・ハンスホード/E・ローソン組(カワサキが2位)と激戦の末勝利したグレーム・クロスビーが起用されていた。
 ポールポジションはG・クロスビーで、ラップレコードも記録した、そして決勝当日スタート直前に天候が急変空から雨粒が落ちてくる、しかし、やみそうな気配も感じられ、各チームタイヤチョイス悩まされていたのでありました。
 この時、G・クロスビーは軽い雨用タイヤのインターミディエイトを選択、「オレはスーパーレインで行くデー」清原が選択したタイヤは、コース上に水溜りが出来るほどのドシャ降りの雨に対応するタイプだった、この選択は、フレーム剛性の差を考えた末の結論だった、’83年のKR1000にはアルミ製フレームが採用されていた。
 清原は車体全体の剛性を考えるとヨシムラのマシンに優位性を感じていた「KR1000ではな!エンジンのパワーはゴッツィあるのや、でもフレーム剛性がクロスビーのよりアラへン、だからオレは雨が強くなるのに賭けとったんや、雨やったら剛性は要らんと、ライダーのテクニックで勝負できると思うとった。
 ソリャー インターミディエイトは安心感があってんけどな、無難なこと考えたらアカン優勝するっきゃないねんからな、そやからオレはもう雨にかけてスーパーレインで行ったわけやな、これでダメだったらしょうないと」しかし、天候が味方したのは清原にである。
 徐々に雨足が強くなったのである、悪天候の中清原はマシンを制御しながらフィニシュラインを通過「優勝」を獲得してしまった(’81年のあだ討ちかな?)
 この年、カワサキはワークス活動を休止するのであった、清原の正式引退は’88年だが、ワークス活動を続けて来た男にとって、事実上この’83年がライダーとして最後のシーズンともいえ、またKR1000で勝利した雨の鈴鹿200kmであっつた・・・次回キヨさんの最終回です乞うご期待・・・thirai (なにやらカワサキプラザが閉店らしい、次ぎの次からはプラザの想い出かな?)
*写真はお立ち台真ん中がおいらの「キヨさん」である又引退レースの時徳野・多田・宗和の漫才コンビを従えて
 
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by toshi-hirai | 2009-09-13 01:43

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」20

e0190502_853810.jpg・・・時まさに70年代ネキッドベースの台頭の幕開け、ボルドール24時間耐久RRやルマン1000kmといったヨーロッパを中心とした耐久では、プライベーター達がZ1ベースのマシンで活躍を始めていた。
 日本では’78年鈴鹿8時間耐久が始まり(鈴鹿8耐)このレースの前哨戦(これを走って鈴鹿8耐出場権を獲得出来た)鈴鹿200km耐久RRも開催された、カワサキはワークスとして第1回鈴鹿8耐に参戦、サーキットに現われたマシンは世界耐久RRに使用されているZ1ベースではなく、’78年からWGPで使用されていた2ストロークKR350だった。
 ライダーはワークスライダー清原明彦&和田将弘特にキヨさんはKR開発の中心的な存在で自身WGP参戦初シーズン’77年の西ドイツGPでマシンKR250を駆り2位を獲得加えて国内スプリントレースでは上記の通りKR250.KR350・KR750の乗りなれたマシンを優勝に導いている。
 他メーカはホンダRCBやヨシムラGS1000、4ストローク1000ccのエンジンでカワサキの誇る技術陣は650ccの排気量の差をものともせず全てに負けていなかった?(なぜなら耐久性に問題が?ウオーターポンプのトラブルが原因でリタイヤの時もあったようだ!!!)
 その翌年第2回大会でカワサキはZ1をベースに変更した「KR1000」を持ち込んでライダー清原&和田のコンビでヨーロッパに続いての参戦、ただ、マシンの評価は決して高いものでなかった。
 キヨさんは「エンジンはマー問題なかったな、でも重たいし遅い・・・そんな感じヤッタ」コンビのライダー決定も2ヶ月前テストもママならない状況下での参戦残念ながら68周目に和田が転倒リタイヤでレース終了、続く’80年第3回大会では順位を大きく上げたのであった。
 新しくコンビを組んだ清原&徳野組に変わって出場したKR1000は7位を獲得、しかも、翌年を見据えてこの年カワサキワークスから、グレッグ・ハンスフォード&エディー・ローソン組がテストを兼ねての参戦、トップ争いを演じ惜しくも第2位、キヨさんにして「エデイーは体細いし腕相撲しても日本人ライダーに勝てない優男エディーがメチャ速いネン???」と言わしたのであった。
 此処で’81年からKR1000に搭載するエンジンがZ!ベースからZ1000Jへと変更するのだ・・・翌’82年カワサキワークスのレース活動に大きな変動が起きるのである・・・後は来週のお楽しみ乞うご期待・・・thirai

*写真はKR350cc・KR1000 KAWASAKI WORLD MC GUIDEより(写真技術を勉強します)e0190502_814350.jpg
 
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by toshi-hirai | 2009-09-06 08:09

「Team Greenを愛する馬鹿な男の夢」19

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 レース戦線で数多くの功績を残し、カワサキ此処にありを実践してきたキヨさんを忘れてはバチが当たるのでは?キヨさん物語は数多く紹介されておりますが、今日から「カワサキロードレースこの20年」をご披露しよう。
 まずキヨさんのプロフィールから
   ①清原明彦 1946年2月26日神戸市に生まれる(63歳)
   ②1961年 川崎航空機工業㈱入社
   ③1964年 開発テストライダーとなる
   ④1967年 とし子夫人と結婚、鈴鹿6時間耐久レースで優勝(A-1)
   ⑤1970年 MXレースを初め出場レースのほとんどに優勝毎年昇格EXジュニアー(現国際B級)
   ⑥1972年 鈴鹿で750ccクラスに優勝(カワサキの誇るH-2、2サイクル3気筒世界最速)
   ⑦1974年 セニアに昇格(現在の国際A級)
   ⑧1975年 社員ライダーとして全日本筑波RRで優勝(H2R)続いて全日本鈴鹿200マイル
           優勝(KR750)を初め筑波で3回優勝(いずれもKR750)
           FL-750クラス全日本チャンピョンをカワサキにもたらしたのである
   ⑨1976年 ファクトリーライダーとしてスタート 筑波で優勝(KR750)
   ⑩1977年 世界GPレース参戦 西ドイツGPでポールポジション、
           決勝2位お立ち台ですぞ(KR250)スペインGP9位(KR250)
   ⑪1978年 第1回筑波フェステバル優勝(KR350)
   ⑫1979年 筑波でFL-750クラスで優勝(KR750)
   ⑬1980年 鈴鹿8耐久に徳野選手と走り総合7位(KR1000)
   ⑭1982年 モーターサイクルショップ「プロショップ」を3月にOPEN
   ⑮1983年 全日本鈴鹿2位、鈴鹿200キロで優勝(KR1000)
   ⑯1997年 鈴鹿8耐の前哨戦S-NK2時間耐久でクラス優勝(kr1000)久々の復活
           グランドスラム4@筑波サーキットHUGE-1 6位入賞!
   ⑰1998年 アッセン@オランダセンチネルTTにて250CCクラス優勝

   此処でイップク、今も有数のカワサキ正規販売店で「プロショップKIYO]を経営して頑張っている。

       神戸市兵庫区西宮内町2-24 TEL 078-686-0390 お立寄り下さい。

                    今日はKIYOさんの紹介明日また物語を・・・・・thirai
*写真は「キヨさんである」

 
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by toshi-hirai | 2009-09-05 19:41