Team Green

<   2012年 01月 ( 13 )   > この月の画像一覧

「コーヒーブレーク」

・・・一休み終了・・・続けます・・・前回の分も見てください。.exbloghttp://toshihirai.jp/17288718/   決勝では好スタートを切った塚本選手快調に飛ばす。2分13~15秒で周回を重ね、X-FクラスTPOの総合11位でピットイン、代わった山田選手も必死の走行12位をキープ、ところが47周目クラッチトラブル、デグナーでコースアウト何とかピットに戻り、それこそ「必死のパッチ」修理に挑んだのでした。
 チームメイト鼓舞するかのごとく、自らワークスのピットに・・・アホ・・・ワークスに量産の部品なんかあるもんかい、しかもやで!ワークスも必死にやっている最中、もし僕がやっていた時なら「コラ何しに来た~」こっちも一生懸命やってるのや、邪魔スンナ出て行け・・・と怒鳴っていただろう・・・しかし、そこで似たような部品を貰い、ピットで修復したのであります・・・これがカワサキの良さや・・・
e0190502_10254875.jpg


 再スタートに(修理に)時間がかかり再度スタートするものの50位迄順位が落ち、おまけに再スターと一周目で再度ピットイン約10分のロスタイムもう後ろも居なかったんでは?と思うぐらい順位を落として51位で周回を回り出したのでありました。

 
e0190502_1163592.jpg

 サーこれからが昭一の凄さ追い上げる追い上げる猛チャージ他のライダーには悪いが下位チームとはタイムが違う2分13秒でスプリントレース並み76周目には40位129周目26位迄順位を上げる、終盤迷監督は順位を上げるべく山田に囁き、昭一の続投ガソリンの給油&タイヤ交換でピットを後に・・・前を走っていたクラス2位の中川 実&岸田尊陽組(H)の監督はまたもや昭一が出て行ったの見て勝負に出たのであります・・・

 ライダーを変えずにそのまま走らせ、ピットでのロスを稼いで2位をキープする作戦に(ここが焦った監督の読み違い・当然ライダーも監督の意図を感じアクセル全開、昭一をブロックしょうとしたのでは?考えが甘い・・・ソレハネ追われるマシンは唸りを上げてエンジンを回したのでガス欠でエンスト)作戦は良いのだが、ガス欠まで考え無かった監督の負け・・・へへへその時、迷監督は既にメカニックに相手ピットを偵察にガソリン給油の準備が無いのを知って笑っていたのであります。

 マシンが再スタートした時点で迷監督は皆に、お立ち台や~クラス 3位 総合18位を狙えるとチームメイトに宣言(誰もが半信半疑信じなかった)、レース終了時点最後のライダー山田達也が「自分の長年の夢」を見ながらの走行、クラス2位・総合17位と神がかりな天才迷監督の叫びを皆は改めて感じ、背筋に電撃が走ったそうな、そういえば女性は感激・涙・涙・良かったなーチャンスやっのに・・・何の・・・自分も自分の言葉に酔ってしまっていたのである。アアーもったいな~何がへへへへ助平~ソウヤで平イやもん・・・

 そうして最終クラス2位総合17位でチエッカーを最終ライダー山田達也は長年描いた自分の「夢」を実現し、又、昭一の友情そうしてガッツ、チームメイト皆の力を全員が充分に出し切り彼らの青春の一ページを刻んだのでありました。

 これで終わり、良かった良かった昭一さんこの時の原稿もう良い今度はラスト「自分で書きたいことを書いて」長かった「昭一の思い出」を終焉にしょうか?有難う塚本さん・・・しかし、エンデングはあるよ・・・
                                                
                                                         t-hirai
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-29 11:50

「コーヒーブレーク」

・・・マタマタ「コーヒーブレーク」どうも「昭一さん」は多忙なヒトらしい・・・

 今回は彼39歳の時(1999年)仕事仲間の山田達也氏(元KISSレーシング)と「夢」を実現しようと始めて鈴鹿8耐に走った「思い出」をと希望したのだが、何故か筆が動かないのかな?平井自身にはレース活動の中でも一番思い出に残る良いレースだった。

 それは私が「胃を手術全摘」して生き延びた年の夏の出来事、多分昭一が死に土産にもう一度レース場に立たせてヤロウと仕組んでくれたストーリーだったのだ、ところがドッコイ未だにピンピンしている、不思議なもんである。

 しかし、この頃は聊か年を感じるところがある、それは仕方ないか?事実歳を取っているのだからと自分で慰めているが、マダマダ「若いもんには負けない」で行きたいもの同じ年のrfuruyaさんもヤレTHE GOOD TIMES、ヤレBEAT(ロードレース世界チャンピョン片山敬済氏の主宰する)や、ヤレ三木や、ヤレ電車やと精力的に動かれており、今もABC・TV「朝まで生テレビ」を見て朝の6:00頃には雑感日記「政治家論評」を高々と投稿している、化け物では?いつ寝ているのか?そうかオジンだから寝るのはナポレオン3時間で良いのだな、私なんか若いから?(rfuruyaさんとは約半年若いだけだが)夜は10:00~朝3:30迄、5時間ほど寝なければ未だに現役どうしても会社で居眠り(これはイカン)と言ったところ、長生きをすれば少しは「世のため人のため」私は私なりに出来ることで恩返しを・・・

 長生きをして、ピチピチした「AKB48」に胸を躍らせ「あのスカートもう少し軽くしたら」良いのに・・・「あのメガネのおっさん頭イイナ~テナコト考える」・・・rfuruyaさんとは違うおじいさんが居ても良いやろ・・・テナところである。

・・・オッと話がそれた1999年のレースや・・・ソレハネ男の友情から始まったのである・・・
e0190502_8204038.jpg


 1999 SEPTEMBER kawasaki Riders'Club 「KAZE」 VOL.104の記事をご披露する
 念願のチームを設立し8耐に挑んだ山田達也選手はライダー兼監督(これは間違い監督はあの有名なチームグリーンの迷監督平井さんであるプンプン「マ・イイか」)パートナーにはカワサキフアンならご存知元F-1チャンピョン塚本昭一選手」を迎えた。
 スペシャル・ステージでは山田が走行中ブレーキキャリパーのサポートが破損するというトラブルに見舞われたが、相棒の塚本選手が実力を発揮2分13秒240でポジション18位を確保スタートを迎えたのである。

 少々眠たくなってきました・・・少しコーヒーを頂きます・・・
                                                      t-hirai





  
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-29 08:37

「昭一の思い出」16

・・・1992年ソレは僕に取って人生最大の歴史を作る一年になりました・・・

 まさか自分が本当にチャンピョンなんて!(ウソ抜かせ何時もチャンピョン・チャンピョン言っていた)
ソレハネ・・・コツコツとした積み上げが大事な事と実感しました(あたり前田のクラッカー)・・・
 
 1992年チームメイトのソウ和がアメリカえ、ドーソンは解雇!!!チャンピョンに一番可能性があるのが、僕でした(ケンソンすな、誰が居てもワシャ・・・ではないか)勿論、1991年の出来ばえ・・・うまく行けば可能性はあると体中で感じて居りましたし、気持ちは「チャンピョン」と考えることにしました。

 第一戦が始まると例年に無いアクシデントの連続(最後までな!)波乱万丈のシーズンとなってしまい、数々のドラマがありました。
e0190502_4482577.jpg


 第1戦の美祢は悪天候で中止、続く第2戦の筑波,スポット参戦した後輩の高橋がスタートから2~3周後、1コナーでヤマハの故永井と接触転倒! 高橋の直ぐ後ろを走っていた僕はコケた高橋のマシンに乗り上げるように転倒!!!(アホ・・・TOPなら乗り上げたりなんかするか)しかしである、毎度「チャンピョン」と唱えることにした初戦・・・「チャンピョン」なるためには1ポイントも落とせないと・・・すぐさまマシンを越し再スタート、勿論「ドン尻」でもねワンポイントでも最後に役に立つ落とせないと必死のパッチ一人で多くと最終8位まで上がりました(オーソレミヨー7ポイント頂きやんか)
 ちょっと聞いて下さい・・・追い上げ時のラップ・タイム優勝したホンダの武石よりも速いペースだったのでした(ご苦労・・・カワサキのマシンはホンダに勝るとも劣らない素晴らしいマシンなんや信じなさい)

 その時も「チャンピョン」を忘れなかった私の精神力が第3戦に、4メーカーのし烈なる戦い・・・が・・・でも後ろをブッチギッテの優勝でした(ソヤ思い出したやれば出来る)しかも今後の展開を予測するに十分な状況で有りました。

・・・しかしレースは計算どうりには行きません第4戦?鈴鹿200kmと言う8耐の前哨戦これは有名ですが、この時もスタート直後の2コーナーで当時スズキの北川選手のラジエターからの冷却水に乗って転倒リタイヤ!(TOPを走ればそんなことない)そしてTOPで出た菅生では異例の1・2・3フニッシュ塚本・宗和・北川・・・ここまでで僕はランキング2位、第1位はカワサキの北川圭一僕との差は5ポイントこれからが勝負・・・

 続く菅生でも優勝ここで3優勝、2ポイントと追い上げ2ポイントの差で最終戦筑波へ順位を上げてでの参戦でした・・・ポールを獲得(ヨッシャTPOを走れるヤン)
 ここからは前回も書きましたが、アクシデント続き三度目の正直か?私がポールで平井迷監督の怒鳴っていた「信じること」通りの・・・ポールTOフニュシュ優勝「チャンピョン」に輝いたのであります。

 (イヤー本当に昭一が「チャンピョン」信じられない程、嬉しい1992年でした)

 もう一度見てやってください

e0190502_5135035.jpg


 睡魔が今私を誘惑しにやってきました皆さん「おやすみなさい」
                                                t-hirai


 
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-22 05:15

「NPO法人THE GOOD TIMES 新年会」

・・・イヤー総勢21名?マアー良くもこんなにテーマ-である「異種・異質・異地区の人々が一堂に会し」盛り上がる、不思議なもんである?、しかし、全員が楽しかったに違いない、かくいう私も大満足であった・・・

 マ~シャベル~シャベル延々6時から夜中の2時まで8時間しゃべりあり、笑いあり、小競り合いあり、いったいナンヤてなところでした。

 集まったもんである異種は(リタイヤ元気もんの理事長・オートバイ屋さん・オートバイの部品屋さん・PC担当屋さん・オートバイを愛する屋さん・ライダーさん・会社員さん・政治家さん・ご隠居さんソウソウ三木を愛する人等々・・・老若男女)、異質は、全国二輪車協同組合の会長吉田純一さん、BEATの片山・広岡ご両人、初めてレースを体験した濱田須磨子さんとご主人になる人(市会議員さんである)ホンダNSR時代のOBレース監督渡辺さん、そうして何時もの理事さんたち、おまけに異地区東京・神奈川(関東)大阪・神戸(関西)理事軍(三木・加古川・社等々)

 ・・・素晴らしいなんと賑やかな会合である、しかも、しっかり理事会もチャーンとクリアー立派である・・・

e0190502_1951336.jpg

 にこやかな顔・顔・そして顔、早くご飯を頂きたい、イヤ乾杯や~(前列左が紅一点濱田さんのご主人なる方)
e0190502_19522999.jpg

e0190502_19525275.jpg

 ロースの上等霜降り・生き造りの舟盛り尻尾を見てごらん動いておらんカメラブレや、コリャ活ける
e0190502_19554569.jpg

 五月蠅い鍋奉行の指示???イヤ司会者に(タッチャン)指示、エライサンの純ちゃん
e0190502_1957389.jpg

 お寺の住職による講話・・・乾杯と思いきや付けたし講話・・・そうしてヤット和尚の音頭でハジマリ・ハジマリ
e0190502_1958331.jpg

 カワサキの柏原さん、東京の蘇原さん(幸せなような顔、2月に結婚???テナコト仰いましたのね~)
e0190502_2024210.jpg

 古谷・丸山・渡部各氏&紅一点初心者マークのレーサー濱田さん(ご主人になる人はイズコ?)
e0190502_2063815.jpg

 60おじいさん・松島さん(ご両名理事さん)渡辺さん(元ホンダのレース監督)各氏作戦会議中
e0190502_2092114.jpg

 ヤカマシ軍団の古谷・平井・渡部・吉田(本日の幹事)柏原各氏の現在シャベリの準備中
e0190502_20104529.jpg

 お疲れさん幹事のお二人
e0190502_20251774.jpg

 朝のバイキング(和洋バイキング)、流石カワサキの保養所ご馳走ばっかり???しかも、安い・・・
e0190502_20281480.jpg

 翌朝(21日朝早くから)真面目に理事会、今年の関東NPO法人TGTのイベント開催の説明&質疑すべて、OKである・・・マー大らか・・・こうやってみんなが参加する良い企画が?・・・
e0190502_20303757.jpg

 朝の理事会参加者全員、少々カメラ振れ・・・まだお酒が・・・

・・・この後、三々五々解散でしたご苦労様今年の関東のイベント、又、来年の新年会を約し(来年は六甲山に建設中であるカワサキの保養所でと吉田さんにお願い)閉幕となった。

 追伸 神戸ワインの差し入れ(ボケモン修さん)有難うございました。
  写真は60オジサンのブログをご覧ください・・・

 こうやって名前と写真を提供しても、どなたもお解りにならない「あたり前田のクラッカー」・・・新聞に入っている広告と一緒、作った人(写した人)、配った人(集まった人)、広告主(写された人)しか見ていない・・・
・・・新聞に入っているチラシなんてそんなもんであります資源の無駄・・・勿体無い・・・
 
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-21 20:37

「コーヒーブレーク」8

・・・やはり4:00には日曜日と言うのに目が覚めた、「人間」・・・なんて不思議な動物だろう(イヤ僕だけかな~)
 昭一からは忙しいのか原稿が届かない、思い出を探ろうと2010年11月に発売された「レーサーズ」を手元に振り返ると見開きにあのコークさんの雄姿がKR500と共に飛び込んできた。
e0190502_625863.jpg


 ’78~’79年ライムグリーンのタンデムツインKRは圧倒的な強さでGP250/350を制した、そして残された野望は最高峰GP500への挑戦だった・・・

 そこにケン鈴木の顔があったのである、
e0190502_6102783.jpg

e0190502_610489.jpg

 ケン鈴木&コークバリントンも若かりし青春の一ページを刻んでいた絶頂期の顔であろう

 若かりし頃のケン鈴木(呼び捨てゴメン)が蘇っていたのである、思い出した、先日もうすぐ1ヶ年になる昨年の3月あの痛ましい東北地方を襲った地震そうして津波、多くの犠牲者の方々を一瞬にして悲しみの中に・・・

 その一週間前に私はこともあろうに「カワサキの想い出、そして未来」と題してそれこそ全国の皆さんに明石までお越しいただき大騒ぎをして居たのである(罰当たりな奴)、ケン鈴木ご夫妻にもお願いして応援に来て頂いていた。

e0190502_619113.jpg

右からケン鈴木さんの優しい奥様(昨年クリスマスにカードをありがとうございました)そして当日の主役ケン鈴木、そうしてもうみなさんご存じフリーライターのユキさんである

 
e0190502_627079.jpg

 カワサキとの思い出をご披露いただくケン鈴木さん

 カワサキは1969年AMA開幕戦よりライムグリーンのカラーリング(マシン&ツナギ)であえてUSでは不吉なカラーだった緑を使った状態で打って出たのである。

 空冷3気筒のH-1(緑に少々白も使われた)からH1RでGPにスポット参戦、空冷~水冷に変えてH2R(750cc)を駆り一躍レース界で異彩を放つ存在になって行ったのである。
 (私もアノじゃじゃ馬H-2を乗り回す、キヨサンに明治大学ラクビ-の縞々シャツ調のTシャッをツナギの上から来てもらい、優勝したら兵庫メグロの当時総指揮者であった奥さんに市販H-2を20台買取をして頂いた良き時代であった)
e0190502_754552.jpg

この時期ツナギは皆んな茶色か黒、兵メの奥さんが縞々のシャッ来て勝ったらH-2を20台買ってやる、ヨッツシャキヨサンお願い(カラーツナギのルーツや)

 カワサキがまず本格的にマシンを開発したのはKR250「パワーのカワサキと」言うイメージとは正反対のロタリーデスクバルブ125cc単気筒を縦に並べたタンデムツインと言う珍しいレイアウトのエンジンを搭載して、1975年にデビューしたのだが180度等間隔爆発のためか振動が多く戦績はさっぱり、すぐに対策された前後同爆(素晴らしいカワサキの技術陣何をするのか?)しかし、これが功を奏したのである。
 (どうやら77年にはリヤーサスにユニトラック(モノサス)を採用完成させたのである)

 この様な変遷を経てカワサキは’77年UKチームと日本チームの混成体制でその総指揮を任されたのがケン鈴木であった。
 向かうところ敵なし鈴木健夫(ケン鈴木)とコーク・バリントンが有ったのである、どうやらカワサキはボアーを1mm広げKR350をも投入GP250/350を制覇したのである。
   (僕のまずい文章と違うのはすべてレーサーズよりの拝借である、勿論写真も2・3拝借しました)
e0190502_716843.jpg

 当時のチーム体制ナナントこれだけのチーム体制であったようである?たった5人?

 今日は、昭一の原稿が届かなかったので、こんなコーヒーブレークになってしまった、鈴木さんそして「レーサーズ」さん有難う、何かしらこの「レーサーズ」で思い出が走馬灯のごとくに湧いてくる不思議な一冊である・・・
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-15 07:31

「昭一の思い出」16

 国際A級3年目この年初めてお立ち台に上がり、それからは勝てる気がしてきました(やればできる信じなさい)

 この年はTTF-1の開発を兼ねたジツ戦が僕の仕事、1991年型のマシンを少しでも早くドーソンや宗和に渡すことであった。
 初戦はマシンが間に合わず参加できなかったが2戦目の鈴鹿から参戦!ここでアピールしないと僕の出番が無くなると必死のパッチ走りました。

 宗和・ドーソンが90年型のマシンで走る中、僕だけ新型91年モデルで初参戦で3位に入賞(良くやった他社もさぞかし脅威に思ったことだろう)お立ち台に上がりました。

 3戦目の菅生も3位、5戦目の筑波も3位(宗和が初優勝)、7戦目美祢では2位、8戦目鈴鹿では7位、9戦目菅生ではtopを走るも転倒、10戦目筑波で2位(ドーソン初優勝で1・2フニッシュ)

 必死のパッチが功を奏し、走ればお立ち台常連の仲間入りパンチのあるシーズン自信をつけた一年でありました。(ヨッシャそれだよ何事も一生懸命に、そのシーズンは走るのが楽しかったやろ・・・それだ・・・)
 しかも、年間ランキング5位こうしてチャンピョンの下地が出来たのであります(全戦エントリー出来たらチャンピョンやと思っていないだろうな?しかし、好いシーズンだったね「ローマは一日にしてならず」や)

 上位選手でブリジストンタイヤは僕だけだったが、めまぐるしい程の進化にブリジストンの開発力の凄さを目のあたりにして、開発ライダーの僕が良かったから(その通りだがそれを言っちゃーならない、しかし俺は信じるし、今のタイヤ戦争での勝者「ブリジストン」がある)

 この年の鈴鹿8耐は、シンエツカワサキで、宗和と走って5位ヨカッタでした。

(・・・アホやなー、迷監督は一位しか良かったではないやろ~ ショウガツ・ショウガツ・・・マ いいか)

 昭一はそのほか1989年のレースで塚本昭一&前田忠士組で出場したが、この年、8時間経過直後観客がコースになだれ込み全車がチエッカーフラッグが振られる前に・・・赤旗・・・が提示され、一周減算のレースとなり、最終ラップにヤマハのピーターゴダード&加藤信吾組を抜いたのに涙・涙の4位(アホやなーもう一周早く抜けば問題なしなのに)、当然203周のサロン&ピエラ組みも202周との公式発表(一秒一周に命を懸けて走るライダーの気持が解らんか?やな~)

 ・・・当然のことながらMFJによる「すべてのライダーにチエッカーを」を合言葉に「マナーアップキャンペーン」が始まったのである・・・

 それでは写真集の紹介を

 
e0190502_615834.jpg

 1991年インターナショナルTBCロードレース?のスタート、ゼッケン5が昭一・3がソウ和・そうして8が北川
 
e0190502_618385.jpg

 レース前半凌ぎ合いゼッケン10が武石・5は勿論私トップです
 
e0190502_6225772.jpg

 表彰式カワサキの1・2・3 フニッシュ・・・コリャどうしたことや雨が降る・・・

 
e0190502_6234649.jpg

 シンエツカワサキ7位から最終13位(アカンアカン何考えてるのや・・・〇〇・・・)ヒョットシテ1990年の8耐か?ソウソウゼッケン17番グリコ8耐の時かも?

 
e0190502_6262932.jpg

 海外か?1991年 ゼッケン14(国内ではゼッケン5やろ) ブリジストンタイヤの開発時のレース
 (昭一は隙のないライデングを見せてくれる、素晴らしい) 
                                              チャンチャン

                                                      T-HIRAI


 
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-09 06:33

「昭一の思い出」15

・・・昨日は何十年か振りに片山敬済さんにお会いした、又、やってしまった・・・「オイ敬済」とイカンイカン私の呼び捨ては皆にすると隣で「ミネコ」が呟いた。

 世界チャンピョン「世界の片山敬済氏」に、人間国宝「日本の越山峰子氏」にである。

 一緒にいた3時間ほどは反省をしていたので意見を求められたが「今一つ理解が?勉強するのでとお許し頂いた」マー、オジンの事全て許してほしい、これからは「さん」付けで行こう呼び捨ては駄目と反省した・・・

 サテサテ今日は「昭一さん」から届いた写真をゴショウカイショウ (カタカナは早く読んでショーモナ、オジンギャグ、反省シトンカイ)

 
e0190502_5123221.jpg

これはまさしくゴールした直後の一枚であろう、しかし、筑波の空は既に夜

 
e0190502_5174666.jpg

表彰式の模様、燦然と輝く「NO-1」の盾???これMFJが作ったの?イヤKHI

 
e0190502_5153692.jpg

数日後、会社でのチャンピョンダッシュの報告の模様

 しかし、手回しの良いこと「旗」と「NO1の看板」が出来ていた・・・ア・・・そうか最終戦北川とチャンピョンを争っていたのだから、カワサキとしては1・2フニュシュどちらでも良かったのである・・・ナールホド・・・
 マープロ野球でも優勝祝賀会は消えても消えても準備しているのだから、看板ぐらいドーチュことないナイ
マタ、コントロールタワーのふぁんきー塚本の旗も手回しの良いフアンやな~

 それでも当日3回もスタートやり直し、しかもスタート3回もやり直しの原因はカワサキの北川そして宮崎、両方ともカワサキのライダーが、何の因果か周回数減算でやっと走り出した最終戦、当時の実況中継は既にゴショウカイ済み、もう一度読んでみよう。 ↓

             http://toshihirai.exblog.jp/12131557/

どうもすんなり出てこない ↑ スミマセン右側の以前の記事欄、2010年2月のNO34をご覧ください

 何度読んでも「素晴らしい物語」自画自賛?これは違う「素晴らしい物語」である。

                                      マタアシタ  t-hirai
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-08 05:48

「昭一の思い出」14

 国際A級2年目

 会社での仕事はもっぱらX-09(開発コード?)の実戦開発、カワサキの総合力が2サイクルレーサーどこまでレベルUP出来るか?に掛っておりました。
 2ストに乗るのもジュニア時代にKR-1に乗って以来、先輩ライダー多田さんも苦戦していた2スト250ccファクトリーマシン、前田忠士も三浦 明も解雇、オマケニ多田さんも月木レーシングに移籍されました。

 プロの厳しさを肌に強く感じてシーズンイン!(「あたり前田のクラッカー」ファクトリーは勝つのが当たり前Hでチャンピョンの井筒仁康がゼッケンNO1で翌年川崎で走ったり、さしずめ巨人軍?メーカ-にとってライダーは商品悪けりゃ変えるのが当たり前、これからの人生も同じやで用心せ~)
 その代りにF-1にヤマハで走っていたオージーのマイケル・ドーソンと250ccにはエンデュランスレーシングから田口益充がX-09の開発契約でカワサキに入りました。

e0190502_6393986.jpg

(この写真開発時代のX-09かな~昭一教えてー)

 まずはシーズン前にオーストラリアでのテスト、X-09&RS250を比較車に持ち込み開発開始、メカニックとも打合せ、他社に追いつけ追い抜けをスローガンに、追いつくテストでなく他車を上回るためのテストになりガッで周回を重ねました・・・
 いろんなことがありました、中でもシドニー郊外のオランパークサーキットではハイサイド?で派手に大転倒を初めての経験(本当かな?)脳震盪で「ここは何処・・・私は誰」てなことの連発、クランクシャフトが千切れたり、そのお陰かシーズン前にいろんなデーターや改善個所が見つかり充実したテストでした。
 しかも、素晴らしいことはカワサキの技術や、テストを終わり明石に帰ると悪い箇所が全て回収されたX-09が既に出来ていたことでした・・・(これまた「あたり前田のクラッカー」カワサキだけでは無いかも?みんなお互いにシノギを削ってライダーは命を懸けてマシンが成長・進歩しているんやないか・・・世界一素晴らしいマシンが皆の汗で出来るんやないか・・・)

 それでもなかなか全日本の激戦区250ccクラスのレースでポイントを獲得するのは至難の技でした、何しろ他メーカーの市販レーサーに直線で置いて行かれる有様(ソレハネ・・・ライダーが悪い、マシンの性(セイ)にスンナと教えたヤロウ・・・正月やアホ無し)しかし、その分コーナーで追いつくコーナーリングが抜群にうまくなる勉強をしました(それ見ろだな・・・トウタル同じようなタイムで回れるやんか、しかし、直線が伸びないのはつらいよな・・・カッコ悪い、ハハハハ)

 常にポイント圏内ギリギリ15位で1ポイントが10ポイント/年間が精いっぱい、イヤーセカンドグループにもついて行けないレース、さしずめ迷監督なら「お前が悪い」と怒鳴っているでしょうね・・・
 得意の筑波サーキットでは最終コーナー進入で焼き付き大転倒!右手首脱臼骨折・・・舟状骨(ショウジョウコツ)骨折、即、静岡のクワハタ整形外科で手術、この手術で右手の生命線が5cmほど伸びましたハハハ・・・(2サイクルの焼き付きは全開から全閉に持って行ったら焼き付きは「あたり前田のクラッカー」???)
 
 走っても走っても速くなる感じがつかめない、あまりにも使いにくいパワーバンドのないエンジン+トルク不足
他メーカーのファクトリーのマシンが履いてタイムを出しているタイヤをX-09に履くとエンジンパワーが食われて失速する様な事もありました。

 特にマッチャンコーナーが悪かったように思います(ソレハネ自分悪い)会社にお願いして「F-1に乗せてほしい」と頼み、何度かゼッケン9で走らせて貰いました。
 自分でも4ストの方が症に合っていると思いました(あの時、2~3回で14番のポイントを稼ぎましたとあるが昭一には2ストより4ストの方がヨカッタンや・・・グジュグジュ言うとったんはマシンのセイでは無いナ)

 オマケニこの時ブリジストンタイヤを履いて走るカワサキは自分ひとり(当時大型車のスリックタイヤは開発途上で勝ちを狙うマシンには使用していませんでした)
 ブリジストンタイヤの開発にカワサキは相当貢献したのでは?終盤菅生のレースでスタートから5周もトップを快走して、自分自身の自信とタイヤの自信を確認でき来年につながる走りでそのシーズンを終了する事が出来ました。

 レーサーの悲哀、ソレハネ転倒自分が悪いにしろ、マシンが悪いにせよ痛いのは自分や
e0190502_8213031.jpg

 1992年チャンピョンのなった年の全日本前のデイトナスピードウエイで金曜日の50マイルレースで2位を走行していたのに200kmで左コーナーで突入フロントから滑り(スリックが悪いか?それは無いやろソレハ監督が悪い)翌日の新聞からの写真です。

 「スペースシャトルが打ち上がった」・・・マシンは全損・・・しかし翌日本番のレース200マイルでは4位でチェッカーを受けたはずが6位・・・確か電光掲示板も4位と出ていたのに?ドッコイ6位入賞?訳解らんレースでしたがヒーロ-になった瞬間でした。

 この様な写真が昭一から沢山送られてきました、次回は写真集を・・・今日は月/1回の歯医者+内科の病院に奉仕日・・・今日からオープンした病院多いだろうな~・・・年を取ったら「アカン」です・・・
                                                        thirai

 
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-07 08:34

「昭一の思い出」13

・・・明日から活動開始休みは今日までカラダに対する準備のため今日は4:00に起床これを書いている・・・

 もう少し休みたいでもね!休みが多ければ、又、不安な日々であろう、人間なんていい加減なものである、そこを上手くなだめて泳いで行く良くやるものである。(嘆きはそこまで、さてさて思い出である)

 昭一がチーム・グリーンに復帰した時1986年?

 少し前になるが1983年にGPZ400Fが生産された冬に100台のGPZ400F改が工場で組み立てられた、コレハネ、当時特約店の有志が明石工場に参集それぞれに新車を購入して持ち込んだGPZを合宿して組み立てたそこまでしてレースを・・・と言う話である。

 しかし、これがあったから今日のカワサキのレース活動があるんやないかな?へへへのへ

 話せば長くなるが、KHIに少しパワーの上がったGPz400F(1983ZX400ーA2:車重178kg空冷4サイクル4気筒、GPz400と同じ車体であったがパワーはUP最高出力54馬力、このマシンのレーサーレプリカの製造を依頼したが、当時国内・世界の販売も好調でレーサー300台の生産計画をラインに組み込むのは早くとも来年の後半になると言う、2シーズンも遅れてしまう、それではと急きょスペシャルパーツ+クロスミッションを200台依頼、各特約店に注文を取ったら異様に評判が良くすぐに生産計画?が出来上がり100台のレーサーが出来ることになった。(残り100台分はスペアーパーツ)

・・・カワサキはこれだから素晴らしい・・・

 工場の片隅を借用100台のマシンを並べ1台/一人のメカニック?で解体~くみ上げまで10日間程掛けて品証の技術陣の支援を受け作ったのである。

 この前代未聞の快挙を特約店は成し遂げたのである1984年?には、各所のサーキットでグリーンのGPz400F改が走り出したのは勿論である(当時MFJ公認車両は100台の生産でOK公認レースに出られた)
 しかし、走り出しはしたものの勝てなかったように思う、ソレハネ意気込みだけではダメだと言うことである、何しろ重かった私は真剣に体重の軽い向こう意気の強いライダーを探していたのである。

 少し話がそれてしまったが、昭一を探し当てたのはその時である、それでは写真の思い出を!

e0190502_530407.jpg

練習中のGPz400R
e0190502_5335761.jpg

4時間耐久スタートグリットにマシンを8番手くらいでは?
e0190502_535576.jpg

e0190502_624460.jpg

スタート前の緊張した風景(何にも緊張していない、緊張は迷監督だけか?)
e0190502_5371186.jpg

第二ライダー石井の援助を受けスタート
e0190502_5383661.jpg

順調に走行この時が総合15位か?畜生お立ち台には上がれなかった!
e0190502_5403845.jpg

PIT前の風景
e0190502_5412694.jpg

e0190502_542764.jpg

ライダーチェンジの風景

その他
e0190502_5435744.jpg

ゼッケン15これはナンジャ(ポールかアホ2列目か3列目じゃ)昭一国際A級かな?
e0190502_5444493.jpg

PITより積み込みに行く中やんマネジャーとゼッケン8(ゼッケン黄色はジュニヤー)

e0190502_5474082.jpg

戦う前のピカピカに仕上がったゼッケン13ーGPz400RとTime Greenのシンボル

 ロードは駆け出しだが、モトクロスはチームグリーンの黄金時代を築き上げたもんだ?テナコトでこの時期楽しい嬉しい一番充実した時である。

                                                        t-hirai




 

 
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-04 06:20

「昭一の思い出」12

・・・多くの不安の中からの復帰、あのMXの時ワークスの怖いメカニックのおじさんどうも苦手で(ソレハネ昭一が遅かったからやないか?)
 「プロはこの環境の中で結果を出さなアカンのやな~俺には絶対無理」てな感じでMXの時、泣き泣き石川県に帰ったのにマタマタ帰ってきた自分の浅はかさメカニックの皆さんは?(考えて帰って来たのでは?・・・)

 ところがであるロードレースの環境は伸び伸び走れる様子(甘い甘い環境はチームグリーンとワークスは天と地の差があるのである)
 しかし、結果を出さなアカン素晴らしい環境の中で「イッチョヤッタロカ」この楽しめる環境に感謝したのであります。
 
 田舎の山本さんに背中を押して貰えなかったら自分で断っていたのかと思うと今でもゾーとします、人生大事な時に背中を押してくれる良い出会いでした感謝感謝であります。
 
 僕が乗るスーパーマシンはコードナンバー515、チームグリーンの自信作! GPZ400RのF-3マシン、
e0190502_10344682.jpg


仕事は、レースに行くと自分のレースを走る時以外ワークスのビッグマシンの磨き屋&日常はテストライダーそれは楽しい環境でありました。

 GPZ400Rのマシーンは前年に宗和が鈴鹿の最終戦でポールを獲得、雨の決勝ではぶっぎり優勝かと思わせたもののこともあろうに最終ラップに2コーナーで単独転倒!カワサキらしいドラマを演じたマシンです。

 私の初乗りは5月か6月だったと思いますが、これまた土砂降りの富士スピードウェーイ宗和&多田、平井監督の言う漫才ペアーと初顔合わせ、二人の前で雨に濡れたコースをコケそうになりながら必死に走ったことを覚えております。

 迷監督も4耐に向けて相棒のペアーライダーを探して居られました(昭一をメインに相棒を同じような体形ポジションを考えそうしてタイムもそこそこ出せるライダーを特約店に求めて)当初京都のボブキャットに所属していた志賀さんに決めていたが、残念鈴鹿の練習走行で転倒、鎖骨を骨折をしたために、急きょ石田元広と言ううどん屋さんの息子イケメンに決定、耐久開始までの間何度もテスト兼練習を重ね、改めてメーカー系のチームの環境の良さを痛感したのでした。

 イヨイヨ本チャン4耐決勝は、平井迷監督の作戦どうり?(タイムの早いライダーが第一ライダーでは?)私塚本昭一が初めに走り10位以内に食い込みそのまま繋いで5位に入ろうか?テナコト監督の指示で(迷監督はあくまで優勝を狙って居ったんじゃ)一時間後8位で石田にバトンタッチ・・・耐久はイヤレースはチェッカー受けてナンボや~このままでいけばお立ち台テナコト思っていた矢先石田がシケインで転倒ピットに超スローで帰ってきたのです?結局、最終15位完走でしたがあまり良い成績ではありませんでした。

 迷監督に怒られとにかく走り込んだのを覚えております、コースも鈴鹿・筑波・中山等 中山サーキッのコースでは宗和のタイムを上回るタイムで走っておりました。

 宗和は既にワークス国際AクラスでF-3マシンで走っておりました、私も1997年国際A級に平井監督のMFJに書類申請をしたものの成績が無く2階級特進はならず(メーカーから申請で却下されるのは初めてらしいが仕方ない、それはね昭一があまりも速いからどこかのメーカーが反対したのだよ・・・素晴らしい)ショウナイなージュニアで走ることになりました。

 ヨッシャそれでは実力で国際A級をもぎ取れと張切って第1戦に臨みましたが、ホンダのNSR250が登場2サイクルの強みで上位を独占、オマケニタイヤもバイアスからラジアルにレギュレーションが変わり、私も迷監督にお願いしてスリックからラジアルに移行(ラジアル用アルミホイルは眼が飛び出るほど高いもんヤッタ)デモデモ如何せん体重の重さは致し方なく、重戦車GPZ400Rは苦戦を強いられておりました。

 迷監督は、マシンはホイルとエンジンがあれば良いのやアクセルを開けまくれとの強気の発言、コーナーでタイムを稼ぐ「コーナーを早く走る」練習を重ねて行ったのであります、その甲斐あって練習は誰よりもさせて頂きました(ソウヤそれがお前のチャンピョンに反映されているのやないか?と迷監督は言う)翌1988年もジュ二アクラスでA級目指して走ることになりました。

 相棒もオオバ・レーシングからの移籍で三浦 明(HRCで当時大活躍されていた三浦 昇の実弟)と一緒に走ることになりました。
 マシンも新型ZX-4&KR-14サイクルと2サイクルが与えられ平井監督は自分の走り良いマシンでレースをエントリーすると、あくまで勝ちにこだわったのでしょう。
 オイオイ一人のジュニアライダーに4サイクル・2サイクルの各レーサーを準備してお前らの走りやすいマシンでエントリーとは?しかし、相手はNSR軍団!一台を乗りこなすのにも大変なのに2台もマシンがあったらどっち取らずになると、僕はZX-4、三浦はKR-1という形でレースを消化して行きました。

 表彰台にも何度か上がりましたが迷監督の願い優勝は出来ませんでした、デモデモ年間ポイント4位念願の国際A級に昇格したのであります。

 1988年国際A級と同時に田舎で結婚式を挙げ責任の重さが一重にも二重にも肩に掛って来たのです、しかし、KHIの明石工場の隣にあった社宅に住まいを構え来年からファクトリーの一員として契約して頂いたのでした。
  
 平井迷監督のもとで鍛えられ「馬鹿・アホ」と怒鳴られ、鞭打たれ、ある時は褒められ・ある時はボロカスに怒られ、ナンヤ俺の人生と思ったことも何回もありましたが、「平井監督には本当にお世話になりました」これからカワサキで恩返しや・・・一生懸命教えを守りチャンピョンにと誓ったのであります。

 平井の言葉
 ・・・「良くヤッタ・感激した」であります・・・次回からスプリント・耐久(チャンピョン・鈴鹿8耐・ルマン24H)と続けてくれると思います。
 写真は沢山あります「昭一の思い出」13で写真をご披露致します、まずは一休み正月正月・・・

                                            t-hirai
[PR]
by toshi-hirai | 2012-01-03 12:13