「コーヒーブレーク」TEAMGREENの生い立ち
TEAM38の所属している今は亡き実験研究部部長武本 晃(あのル・マン24時間耐久の総監督)に強固にお願いをして統合をさせてもらったんや・・・ゴメンなチャイ
と云うことで明日は斉藤昇司の執筆にヒライ節を交えてTEAM38&TEAM GREENの統合初の8耐の様子をご披露したい・・・デモネこれがあるから今があるんやぜ~・・・
この間、1977年・・・岩堂 博&徳野政樹組の8耐をと書いたがゴメン岩堂&徳野二人とも留守で取材できず今度ゆっくり正確にご披露致します。
さてさて今日は他愛もない’83~’85年頃のTEAM GREEN創設の思い出を集めてご紹介しよう。
「TEAM GREEN」の生い立ちは、当時’80年頃アメリカで人気のあったモトクロスを何とか販売に結び付けようと
ここに書かれているピート堤氏(堤 利雄)がKMCに在籍中にユーザー対策の一環として、カワサキ独自のアマチュアライダー支援活動「TWAM GREEN」を立ち上げる、と云うのがそもそもの始まりである。
http://www.kawasaki-cp.khi.co.jp/msinfo/press/kdc/vol03.html
同じ釜の飯を食べた仲のピートが出張で帰国した時、平井さん日本でもTEAM GREENをと勧められ「ヨッシャ、イッチョヤッテ野郎やナイカ」と奮戦迷監督の始まりである。
販売会社のヤルレースや
①広告活動 ②販売促進 ③販売店対策 ④士気の高揚 ⑤技術の革新・・・
等々の講釈を並べ設立に(今なおお付合いをして頂いている当時カワ販常務取締役兼販売促進部部長古谷錬太郎氏に予算獲得をお願い、多分’82年には非常勤常務取締役に就任されていた)おねだりした予算、当時2千万円/年間を獲得スタート切ったのであります。
当時、私はTEAM KAWASAKI としてMX(ライダー3名故菅原・中深迫・岡山)のみ手掛けていたのであるが、この予算獲得でダイダイ的に(ホンダの予算の何千分の1?勝てるか~?勝ったのである)レースの組織を考えあくまでも販売会社のヤルレース・・・ピート堤氏の応援もあって「TEAM GREEN JAPAN」が誕生したのである。
当時は、菅原義広・中深迫 正・岡山照一の三人イヤー遅かった走っても走っても予選落ちや
イヤチョット待って下さい・・・
翌’83年・・・中深がゼッケン1、スガチャンまんがゼッケン2(これはね二人は前のトシ6位7位のライダーだったのである・・・早いやん?)
そうして菅ちゃんマン1984年TEAM GREEN初の国際B級125ccのチャンピォンに輝いている・・・早かったんや~
スガチャンマンチャンピョンのトシ
中深ゼッケン 1(マッテ~これダンロップのテスト風景
しかし、これも前回に書いたが新星のごとく出てきた調所伸一(’84年ノービスチャンピォン)鈴木南平の二人に負うところが多いのでは、それがチームやお互いに切磋琢磨して強くなったんや・・・
そこからTEAM GREEN のロード・モトクロス二本立ての快進撃があったのである、正にTEAM GREEN2年目からの快挙であり、設立5年後の’87年にはロードを対象に初代スポンサー「GOOD LUCK」が生まれたのである。
t-hirai